ラストで立ち上がれなくなった。それは、突然やってきたのだ。エンドクレジットがせり上がってきた時だった。今の広告屋キャッチで言えば、恥ずかしいが「胸キュン」というやつだ。瞼に水が溜まってきて、ゆっくりとこぼれ出してしまった。映画のラストになってだ。幸い辺りは真っ暗だ。懐かしいジャズプレイヤーの演奏している姿が次々と現れてきたからだ。エンディングロールの左横に映しだされたからだ。小原重徳とブルーコーツ、マーサ三宅、ペギー葉山、今は亡きジョージ川口、北村英治、最後は大橋節男の笑顔だった。映画『この世の外へ』の中の進駐軍バンド「ラッキーストライカーズ」が実在の多くのジャズメンと重なったからだ。あたかも、映画の中のあの女性歌手・涼子がマーサであったかのように…、この映画がマーサ三宅の自伝だったのかと錯覚させたのだ。しかし、例えそうでなかったとしても、エンディングロールに映しだされたシニアになった彼らの努力が、そうした同じ想いを貫いて日本にジャズを植え付けてくれたのだと・・・。北村英治は、昨年、サンクトペテルブルグからレースまでの北海洋上で、円熟味のあるクラリネットを聴かせてくれた。世界一周航行中の乗船客の殆どが同じ白髪世代だったから、皆青春の一齣を甦らせたのだろう、郷愁と感謝と激励の拍手は、しばらく鳴り止まなかった。数度に亘って開かれた船内での演奏会は、その度に客席のシルエットを増やしていった。聞き終わった顔は、照れ臭そうな青年の顔に戻って廊下を帰っていったあの光景を思い浮かべた。

 勿論この舞台になった時代は、太平洋戦争敗戦から2年ほどの、進駐軍クラブであるからには、僕の年代のものではない。僕のなかでの進駐軍という存在感は、小学校時代の名古屋港だ。軍艦が停泊すると我先にと船内見学に乗り込んだのも、アイスクリームの美味さを知ったからだった。児童会では「ギブミーチョコ」は禁止となった。長方形の帽子を嬉々として新聞紙で折ってはかぶっていた。MPの白いヘルメットは、怖い男の印だった。米国の色はカーキ色だった。父親はいつも“日の丸”のタバコを吸っていた。父親の“日の丸”こそが、ラッキーストライクだった。僕は専ら、眼鏡をかけたミスターピーナッツのプランターズの缶 を手にしていた。映画の中で池島役のオダギリジョーが初体験したコークを僕が口にしたのは、大学に入った4月、美智子樣の御成婚の年だった。

  ジャズはと言うと、道玄坂の百軒店にあった「ありんこ」や新宿「木馬」八重洲の「ママ」に座っては、かっこつけて試験勉強のノートを整理していた。レコードから流れてくるのは、マイルス・ディビスや、M・J・Qだった。「ダンモ」を聞きに行くと言っていたこの「ジャズ喫茶」というのは、日本独特のものらしい。クラスメイトの渡辺栄吉は、「ブルーノーツ」というバンドを持っていた。後の筒美京平である。

  学生時代、フルバンドを耳にしたのはホテルだった。フルバンドが生で聴ける、しかも普段は入れないホテルのホールで。それだけのために大学生主催のダンスパーティによく出かけたものだった。原信夫とシャープスアンドフラッツ、南里文雄とホット・ペッパーズ、松本文男とミュージック・メイカーズ、鈴木章治とリズムエース。有馬徹とノーチェ・クバーナ、チャーリー石黒と東京パンチョス、小野満とスイング・ビーバーズ、見砂直照と東京キューバン・ボーイズ。気持ちが揺さぶられる大きな響きだった。従業員が手で並び直すボーリングもその頃だった。東京文化とアメリカ文化が、自分に洪水のように流れ込んできた。新宿西口は、砂ぼこりの立つバラックの店が軒を連ねていた。渋谷には、進駐軍兵士へのラブレターを代筆する「恋文横丁」があった。次々と、自分の青春時代がフラッシュバックした。我々の時代の旗印は、「毎週買う平凡パンチ」と「ヴァンジャケットのステッカー」だった。

  話を映画に戻そう。「ジャズは、あなた達のお陰で根付いたのだ、有り難う御座いました」という気持ちが高まったのだろう、エンディングロール脇の元気なジャズメンの姿は、4年目最終年の「クラブ進駐軍」のライブコンサート風景だったのだと、パンフレットを買った後で知った。5人の「ラッキーストライカーズ」のぎこちない演奏が徐々に滑らかになっていく過程は、非常にリアルに思えた。吹き替え演奏にしては、手元を隠さないカメラワークだなと気になった。これはもしや、役作りのために練習を重ねたのかと、サックスを吹く広岡役の萩原の頬と指を凝視した。大野明役のピアノタッチも・・・・。これまたパンフレットで知ったことだが、ペットを除く彼ら4人は、夫々の楽器を演奏できるまでに猛練習を積んできたのだ。このクランクアップで、役者のほかにもう一芸をモノにしたことになる。見終わった後ではあるが、そこまでこの作品に自分を疑似体験させた役者根性が嬉しくなった。いや、坂本という監督の磁場は凄かったんだと。戦後のバラックや闇市の再現、もんぺ姿などの再現に集束させた力は、役者各人に(サックスの巧い進駐軍兵士役にも)演奏をマスターさせる条件にまで繋がっていた。

  心に刺さったせりふは2ヶ所。定かではないがこう覚えている。そのひとつ。「この赤い真ん丸が日本だ。そしてその廻りを囲んでいる黒い太い線が占領軍のアメリカだ。その外側が広い世界だ。」確かに自分も“日の丸”と見ていた。ロゴマークも強く、シンプルなこのデザインは、表裏を同じにした画期的なパッケージデザインだと評価されている。「平和」を「希望する」という戦後の日本人の気持ちを込めたのが、「ピース」であり、「ホープ」であることが、今の小泉内閣の日本で保てているのだろうか。ふたつめ。「生きて帰れよ」「逆だよ。殺しに行くのだよ、戦場へ行くんだから」ジャズの新譜をくれるようになった進駐軍兵士とのやりとり。観ている者に重なったのは、おそらく、イラクへの人道支援という大義名分で、初めてインド洋の空を越えた自衛隊だろう。帯広と小牧の留守家族には痛い言葉である。

 戦後多くの浮浪者が寝起きしていたといわれる上野の地下道を歩いて昭和通 りに出る。タイムマシーンに乗ったように、あの時代をワープしてきたのだ。昭和通 りを越えて、帰り道、いつものビルの入口を覗いてみた。今晩も、あのホームレスのおばさんが静かな寝息を立てていた。彼女は今夜どんな夢を見ているのだろうか。イラクに出ていった自衛隊と上野の公園のホームレスのテント村。何が変わってきたのだろうか・・・。

  2/17、次世代のジャズを受け継いだジャズピアニスト・世良 譲が日本から消えた。享年71歳だった。癌に倒れた。3月の誕生日を前に逝った。スイングからモダンまで軽妙洒脱なしゃべりは、垢抜けしていたと評された。北村英治がにっぽん丸に乗ったように、やはり世界一周のクルーズ・飛鳥でも船客に華麗なピアノを聴かせていたらしい。2002年の夏には、入院していた東芝病院の玄関に置いたピアノを叩いてロビーセッションもしていたという。http://www.ozsons.com/ozsons-pit/Sera.htm 
 お疲れさまでした。米軍キャンプで鍛えられたとされる、あのジョージ川口が昨年11月亡くなった。二人とも「この世の外へ」逝った。合掌。


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