最初にして最後の公開だという国宝が、奈良から上野の国立博物館に深夜、大型トラックで運ばれてきた。鑑真和上像と盧舎那仏(るしゃなぶつ)だ。1/12から3/6までだった。近くにいる割りには、ぎりぎりとも思える3/1に出かけた。この「唐招提寺展」を観ようと集まってきた人は、その殆どが、リタイアしたと想われる夫婦連れだった。かくいう自分もカミサンと一緒だった。新しく建てられた平成館の中は、そうした年齢で溢れんばかりであった。この人並みの中で、あらためて、…自分も老けたのだなあと大きな深呼吸をしてしまった。金堂を解体しての大修理が行われている。このため、国宝が寺外初公開となったのだ。
盧舎那仏(るしゃなぶつ)坐像を中央に、梵天(ぼんてん)・帝釈天(たいしゃくてん)像と、四隅に多門天像、広目天像、持国天像、増長天像の四天王立像(してんのうりゅうぞう
)が配されて、いかにも武者に守られている天平の時代の荘厳な佇まいだった。初公開でなによりも、喜ばれたことは、たとえ奈良に出かけたとしても、像の後に回って背面
など観ることが出来るはずもないことが今回参観した人にはできたということだ。この会場では、一木彫りで成された衣服のドレイプなどを30cmの近くで見つめることさえ出来たのだ。今回は、金堂のバーチャル再現映像がCGで創られていて、梁の組み込み構造から、天平の瓦葺き、更には、東山魁夷の描いた障壁画も、襖を入れた立体的な状態にして見せてくれた。TBSの映像制作による見応えのあるものだった。
それが、TBSTV50周年記念のイベントだったことをパンフレットで知った。TBS開局といえば、ジェームス・ディーンが消えて、江川卓が生まれた年だった。それはまた、東通
工(東京通信工業)が、日本初のトランジスタラジオを発売して世界を驚かせた年でもある。奇しくも、ソニーは、トップを英国人にしたと発表して、また、世間を驚かせた。かつてのマツダ、日産に続いて、外国人トップによる日本企業が新しい扉を開けることになった。
戦後の日本が還暦を迎えたいま、極めて問題になるのは、世代交代と日本の老化問題だろう。日本が世界で初めてとなる高齢社会の市場経済モデルがどう創られていくのか、注目されていくに違いない。そして我々の後に控えている団塊の世代、1085万人の渦だ。どの産業、どこの企業が、その渦に呑み込まれていくか、今は僕にも非常に関心がある。従来の世代論では市場を掴めないと言われているが、「会社に選ばれた2割の社員」という経済評論家の西村晃さんのワードを思い出した。2割の出世同僚に会社は任せて、後の8割は自分を大切にする時間消費者になるという説が、愈々現実化したというわけである。「ブルータス」世代であり「丸井世代」が、また社会構造を静かに変えていくことだろう。なぜなら、50代の雑誌に掲載されている広告商品と、2代目社長の丸井による店舗展開がまた動き始めたのだから。
我々はその前の世代である。「谷間の世代」だという人がいる。たしかに、そうだ。大学のキャンパスが、詰め襟の学生服から、VANジャケに変わっていったのだ。そしてラジオからTV、モノクロからカラー。フィルムからビデオ。いすずべレットからスカイラインZ。「つばめ」から「ひかり」。歌声喫茶からビートルズ。「MG5」から「ブラバス」。「平凡パンチ」から「話の特集」。すべてが多くの峠を越えた。盧舎那仏に足を運んでみようという心境になったのも不思議なものだ。若い時代、10年間もミッション系の学校だったせいか、仏像を拝むことには少々違和感があった。ところが、ここのところ、墓地のチラシ、重なる訃報、喪服に数珠という機会が重なりはじめ、初孫の宮参りを経験すると至っては、神社仏閣のほうが近づいてきた。鐘の音や読経を耳にすると、不思議に心地よくなるのはなんだろうか。日本人を確認させられるからだろうか。最近特に、ジャー・バンファンの二胡や東儀の簫、沖縄の三線などを耳にすると、来し方を省みて、若い頃を頭に浮かべる。ゆったりした音楽が体に滲みる。どこか、時間が泳いでいる風景に出会うとふっとする。そういう意味からも、年老いたという気分が強くなっている。
カラオケルーム最大手のシダックスが、シニアを対象にゴールドメンバーズ制のカラオケルームを創った。フルコースの料理を味わいながらの落ち着いた雰囲気が売り物だという。シニア同志のディナーショータイムということか。最近は、ヒット曲もなく、紅白も代わり映えしなかった。メロディ偏重になって、亜久悠や荒木とよひさの詞にあるような、残る言葉が少なくなった。歌詞を伝えたくなるというよりも、曲に乗れば、詞の辻褄が合わないことなど、気にならないのだ。情緒が変わり始めた。マライアキャリーの影響か、「もののけ姫」を唄った米良美一の影響なのか。兎にも角にも、「さくら」の森山直太郎、「桜」の河口恭吾平も、平井堅も、平原綾香も、リリースした曲は、いずれも確かに伸びのある高音で唄われている。いつの間にか、カラオケルームが音域を競い合うような場になっていった。ファルセットで唄えるということが歌唱力ではないのに、誰もが高いキーで唄い始めた。唄えない歌が増えた。これだけが原因ではないが、最近カラオケルームの回転率が芳しくないらしい。路上での呼び込みも激しい。主婦が昼間の井戸端会議に使っているという話も聞く。サラリーマンは、上司の下手な歌にもいちいち拍手する、あのヨイショに疲れると避け始めた。若者は他の遊びを見つけたのだろうか。「落ち着いて唄いたい」というシニアの声に的を絞りはじめた。が、果
して、この世代、フルコースの食事をしたくなるほどに長居をして歌い続けるだろうか疑問である。痛風が恐いと尿酸値の、肝臓がどうもとγGRPの数値に敏感になり、糖尿病や腎臓病で塩分制限が始まりかけている者が増えてくる。中高年層を狙うなら、「無添加」・「減塩」・「低カロリー」と、彼らの関心が高い料理を出してほしいものである。無駄
な脂分や塩分を落とすという世界初の水蒸気オーブン、シャープ「ヘルシオ」は、10万円以上の高額調理器具なら年間3万台と言われながら、6ヵ月で7万台ものヒットとなり、健康指向の米国からアジア市場まで見込めるようになった。プリン体90%削除のビールが、依然として支持されている市場である。カラオケバーでも、ウイスキーが敬遠され、翌朝の体が楽だからと、ボトルキープを焼酎にシフトしたシニアが多くなっている。
そうでなくとも、街全体が老いていくところが出始めている。日本で初めての団地が建ったのが、名古屋の当時郊外だった西山団地だという人もいれば、千葉県の八千代台団地だとか、西東京市のひばりが丘団地、大阪の枚方団地だとする人もいる。それは昭和34年辺りの時代だった。ニュータウンという住宅街が東京の南西部に生まれたのは、今から34年も前にことだ。エリートサラリーマンにとって、新しい生活が始まる土地だった。名前は、多摩ニュータウン。その後、千葉方面
にも、多くのニュータウンが開けていった。ところが、それらのタウン人口が減少し、徐々にリタイア夫婦だけの街になりつつある。同年代の所得層が応募した、主として2DK、2LDKであるから、結婚した子供たちは同居できない。ある時期を経過すれば必然的に、シニア社会が出来上がってしまう。幼稚園は消え、進学塾も異業種と入れ替わり、周辺には、子供の姿を見ない老人の街になる。いま、全国的に老人の街が生まれている。まさに、重松清の「定年ゴジラ」(講談社文庫)
の山崎さんの世界が始まっている。孤独死の街が拡がる危険性がある。介護の街のビジネスモデルが待たれる。地方から首都圏の大学生となり、就職先も情報の集まる首都圏に留まり、コンクリート社会の中で齡を重ねていく。故郷を思いだすのか、自然に戻りたい。土をいじりたい。僕の定年同期生の中にも、畑作業を楽しんでいる者が多い。“アーノルド・ファーマー”だという。
いまは、「交流居住」と命名された生活スタイルを総務省が普及しようとしている。都市住民が都市と農村の二極に拠点を持って交流を楽しむデュラルライフのことらしい。そうならば僕も東京と熱海を往復する、その交流居住民である。刻まれる時間と流れる時間のスイッチングが実に心地よい。尤も、総務省の推奨しているライフスタイルとは、新潟では、ショートステイして山村留学してくる子供たちの世話やら、民宿の手伝いやら、県産品の加工などをしながら、その土地に馴染む、交流する、理解しあうことらしい。以前、年老いた人たちが残された過疎地に民家を買って住んだ人たちが話題になった。当時は、土地の人とのギャップに悩んだ話も聞かれたが、「交流居住」民は、ショートステイを繰り返すので、いわば、就職のためのインターンシップに似ている。
「週末農業」、「レンタル菜園」も変わってきた。スキーのインストラクターである浅川正樹さんが運営する「八ケ岳あおぞら農園」には、年間25000円で借りたオーナーが120区画いる。時代が変わったなと思えるのは、浅川さんが撮影した農園の全区画がホームページで覗けるのだ。野菜の生育状態が、パソコンで確認できるということ。しかも、年一度集まるイベントで知りあったオーナー同志が、これまたホームページの掲示板で交流しあっているということだ。単なる土いじりではなくなっている。
バンコックの友人からメールがきた。ゴルフシューズの底がツルツルだ、と。1週間に3回の頻度で擦り減ってしまったというのだ。『出たぁ〜39!一打入魂、石の上にも三年噴火です。老人やりました。ついに30台をマーク!自宅はシラチャから10キロ離れたリゾートマンションの12階に決めました。窓外はシャム湾が視界180°広がっています。夕日を愛でながらソルテイドックなどがぴったりのロケーション!24日引越しです。そうそう、バンプラ・ゴルフクラブまでわずか15分。その他ゴルフ場多数あり!そんなわけで当分帰国できそうにありません。』同い年のシニアの一人は、常夏の国で汗を流している。
グァムに移り住んでいた元サーファーのドキュメント番組を観た。海を生涯の友達にさせたかったという親の思いからか、夏樹という名前だった。世界大会に8年も出場したウインドサーファー・飯島夏樹。ベッドに横たわっているとはいえ、顔の黒さは、肝臓ガンに冒されているのではなく、いまも潮風で焼かれている顔色に思えた。
「僕は、10数年、海とつきあってきましたけれど、主役は…風と、波と、海なんですよ。…ぼくなんか、遊ばせてもらっているんですよ。生きているんじゃないんですよね、生かされているんですよね。…僕が生かされている意味があるんでしょうねえ。よくわかんないんですがね。ぼくなんか、まだ若いんで。」
病床から『小説・天国で君に遇えたら』をパソコンで書いた。その通称『天君』(新潮社)が10万部を超えた。2004年、冬を越せない余命ならば「冬の来ないハワイ」にと、在宅ホスピスを受けるため、奥さんと4人の子供たちと移住した。そして、彼の日記「今日も生かされてます」が、ネットで発信され続けた。
2005年2月17日(抜粋)<早くゆっくり生きたいなあ。>
2005年2月19日(抜粋)<静かに苦しみつつ、時が訪れるのを待っていた。もう自分の頑張りも、これくらいだ。そこで、よしっと決めたのだ。「生きるのに時があり、死ぬ
のに時がある」>
ここで日記は絶たれた。2005年2月28日 永眠。享年38歳だった。同じサーファーだった二人は、初めて出会って半年で結婚したという。奇しくも我々夫婦も同じだ。出会ってから二ヵ月で婚約し、半年後に結婚した。東京オリンピックの日を記念した「体育の日」だった。健康であるべき僕はいま、腎不全となって、塩分摂取1日6gという食餌療法のために、妻の手を煩わせている。スキーが好きだったから、スキー場で結婚するんだと、大学時代、親戚
の皆に言いまくっていた。夏男と冬男の違いだ。背中を冷やすことは禁物なので、イタもブーツも、部屋の中にじっと置かれている。捨てることが出来ないのである。反対に離せなくなったのは、「日本冬虫夏草」だ。
株式会社エフェクトのヤハギエキスを友人の週刊誌の記者から薦められた。腎臓機能の低下を診るクレアチニン数値が、1.4から1.5、6、8と増え始め、プレドニンの服用を医師から告げられたとき、プルドニンの副作用を避けたいとして拒否した。退院して、「日本冬虫夏草」を服用し始めた。一時期2.0まで上がった時があったが、「日本冬虫夏草」を再び服用してから、1.8にまで戻った。中国冬虫夏草は日本に輸入する際、加熱殺菌が義務づけられ、熱によって成分が変成している可能性が高いという。つまり、本来は菌糸体が生きていることが第一の要件で、
日本冬虫夏草は、冬虫夏草の成長過程、特に繁殖期に分泌される最も力が強いとされている代謝成分を使っているとか。「楽天」でも売上の10位
に入っている。勿論、検診している医師の薬も併用しているが、このエキスの力も、実感しているのである。最近は、東洋医学と西洋医学を併用する研究が盛んになってきた。2007年に向けて、益々シニアの医療の充実が望まれる。
http://homepage2.nifty.com/tochukaso/
http://www.tochukaso.co.jp/
人間、生まれたときから死に向って、時が刻まれているという。罪をもって生まれてきているというのが、キリスト教である。先日、博報堂のCMOB会があった。80歳の先輩から50代の後輩まで、元気にしている顔が集まった。こうした場所では、僕はいつもこういう。「CMの同期では、生き残りの萩原です」同乗していた二人が交通
事故死、一人が舌ガンだった。 飯島夏樹さんのように、何時かは、死について決断を下すときが来る。2004年のアカデミー賞外国語映画賞を受賞したカナダ映画「みなさん、さようなら」の湖畔のシーンを思い出した。
末期ガンを宣告されたが、死が怖くて未だ覚悟ができていない大学教授が、世界中に散らばった友人や家族を別
荘に呼び集め、ユーモアを交えて昔話を語りあう。しかし最後の時を迎え、彼自身が決断する。その湖畔で安楽死を選ぶ。<早くゆっくり生きたいなあ。>の気持ちに共通
するものを感じた。
小気味よく世相を斬ってきたセントルイスが肺ガンで倒れた。声が出なくなった。病室から復帰した際に、親友、小松政夫にセントルイスが言ったという言葉が小気味いい。「牙はなくなったが、爪は残っているよ」。故セントルイスの意気込みを頂いて、笑鬼の片眼は、これから爪を立てて書いていこうと思う。聞くところによれば、現在の60代よりも、団塊の世代の年金受給額が最も恵まれているようで、「逃げ切り世代」だそうである。なおかつこの世代は、会社業務ではパソコンを使わざるを得なくなった層でもあり、ウエブサイトに深くは入り込んでも、情報文字を読むことが苦にならない最後の世代かもしれないのだ。日経新聞の購読が例え、減ったとしても、預金に余裕のある時間余りのシニア(時持ち、金持ち)に対しては、従来にないITマーケットのビジネスチャンスが到来するのではないか。スニーカーミドルが、メルマガミドルになっていく。
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