8月13日、慶州から日本へ戻る。釜山から博多まで高速艇なら3時間の距離である。その距離を下関へ朝着くために、2万トンの客船は、かなり時間調整をしたようだ。船室のTVに描かれた航路ナビの記録でそれが判る。日本に近づいてもV字に逆行したり蛇行したりしていたからである。
朝5時30分、下関港に着岸した。外国から戻ってきたので、税関の入国手続がある。昼食を摂ってからの下船となった。関門橋のトンネルを歩くことにした。
映画「チルソクの夏」の舞台になった下関だ。「半落ち」の佐々部清監督が自分の故郷を舞台にした映画だった。監督の実妹がモチーフになったというが、主演は水谷妃里。(友人役の上野樹里は、その後、東北地方の高校生となり、映画「スイング・ガール」で主役になる。)韓国人学生との恋を描いた現代版「ロミオとジュリエット」の映画だった。その後にも、井筒監督の「パッチギ」が日本人の高校生と在日朝鮮の女子高生(沢尻エリカ)との恋を描き、第二の「ロミオとジュリエット」として続くことになった。「チルソク」は、ピンクレディのヒットメロディや水原弘の『黒い花びら』、「パッチギ」はフォーク・クルセーダースの『イムジン河』という音楽が重要な横糸になった。
関門海峡の下は、1日に4回も潮流が変わるという。船舶にとっては注意が要るところだそうだ。門司までタクシーで関門橋を越える。本州から九州に渡ったということになる。門司港には大正時代のレトロ地区があるということだったが、散策する時間はなかった。
門司側からエレベターで地下60mの人道トンネルに降りる。780mを歩く。「海峡ウオーカー」というのだそうだ。水谷妃里が歩いたシーンが頭に浮かぶ。
下の関側に出ると、みもすそ川公園である。ここから(「チルソク」)郁子と安君は、関門橋を眺めた。しかし、ここはロマンティックな場所ではない。歴史的な戦いの場がある。源平の盛衰が決った壇ノ浦であり、宮本武蔵の巌流島であり、幕末の攘夷戦で外国船に砲撃した長州砲台がある。
鎖国の日本に開国を迫る諸外国に対抗するため、全国にさきがけ長州藩は砲台を築いた。だが四ヶ国連合艦隊に破られ、高杉晋作の動きもあり、明治維新へと時代が大きく移り変わっていった。さらに、後世は、日清戦争の講和条約が締結された場所でもある。こう列挙すると、日本の歴史の重要拠点にいるのだということを再認識せざるを得なかった。だからロマンティックな場所ではないのである。
バスで下関駅まで乗った。下車するとき、乗車賃150円に200円を入れた。ところが釣り銭は出ない。立ち止まっていると、奥の客がせかす。運転手に釣り銭が出ないがというと、まず両替の口に落としてからしなかったでしょ、お客さんと言われてしまった。はて、東京にこういうバスあっただろうか。旅慣れているように見せていたが、すっかりばれてしまった。
下関の名物である鯨料理もフグ料理もウニ丼も口にせず、駅から埠頭までひたすら歩いた。船に戻って夕食を摂る。19時55分、関門海峡花火大会があるからだ。商船三井客船のライバルでもある日本郵船の飛鳥も、ニビキのファンネルを見せて夕刻に入港着岸していた。両社もこの花火大会に協賛している。
今夜は、デッキからの花火見物である。下関・門司両岸から、壇ノ浦に競って打上げられる花火は、13000発と発表された。両市合同の花火大会は21回目である。水中花火あり、高度450mに打上げる1尺五寸玉
ありで、海の戦いであった壇ノ浦は、今宵、文字通り、火花を散らす空中戦となる。
クルースタッフが手早く各階の船尾デッキに椅子を並べてくれた。中央遠くに関門橋を望み、左岸は下関、右岸は門司の街である。何も遮るものが何もない。見晴らしのいいデッキからの見物は、これまでの花火見物にはない贅沢な特別
席である。海からの微かな潮風を感じながら、爽快な夜となった。
秋田県大曲の花火、茨城県土浦の花火、長岡の花火を三大花火というそうだが、この関門橋花火大会は、そもそもお盆を故郷で迎えるようにと打上げたのが始めだという。星など細工物がぽかっと割れて出てくる「ポカもの」や、連続で打ち上がる今流行りの「スターマイン」、そして、強い衝撃力があるので、おおかたの見物客から、溜息が出る「割もの」などが、夜空を焦がした。花火の日というのは8月1日だそうだが、旧暦では秋となるので、俳句の季語では秋となる。その8月1日に、雨天決行で打上げるPL教団の花火大会が、どうやら20万発の世界最大級だとは知らなかった。僕には、小学校のころの岡崎公園の花火が腹に響いている。
長岡の花火は、新潟空爆慰霊祭を兼ねたものだが、中越地震の復興を祈願してその年の大晦日に打上げられたことは、記憶に新しい。隅田川の花火大会は、あの松平健演じる、暴れん坊将軍・吉宗の時代、享保の大飢饉死者の慰霊と悪疫退散を祈願したのが始まりである。火の芸術作品だと言われて夜空を彩
る花火には、こうした哀しい想いが託される。
古くは、中国の祝い事の爆竹から、火薬入りの竹筒を弓矢として打ったものが、ヨーロッパに渡り、戦争の道具となり、ノーベルがダイナマイトを発明し、その後ロケットの推進力となった。我が国にはポルトガル人が種子島銃と一緒に火薬を伝えた。信長は、大量
の鉄砲を長篠の戦いで使って武田勝頼に大勝した。下関では長州藩の砲台が火を吹き、日本海軍は、その火薬の破壊力で日露戦争に勝ち、講和条約に至った。その場所で花火を眺める。
先週の8月6日には、この空から「ディスカバリー」が無地帰還したのである。耐熱タイルの損傷を修理した日本人宇宙飛行士・野口聡一さんの努力が「ディスカバリー」の命を救ったと言ってもいい。宇宙に八艘飛びの義経が活躍した。さらに、日清といえば、日清食品がラーメンを宇宙食にしてしまったのだ。中国の拉麺からだとも、横浜南京街の屋台ソバだとも言われているが、僕が市場導入した「サッポロ一番」の時代から思えば、宇宙ラーメンが出来たことも、おおきな打上げ花火だ。
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