早朝6時に下関を出港した。国東半島からクダコ水道の午前中は、船尾に集まった数人の船客とデッキゴルフをして汗を流した。 デッキゴルフは、遠洋定期船が世界を行き交った時代からの伝統的デッキ遊びだと聞かされた。長い航路で運動不足になるので始めたのだろうか、それほどにハイソなスポーツである。シンガポールからペナン辺りを航行する「スタークルーズ・ヴァーゴ」では、プレイするらしいが、日本の客船では、「にっぽん丸」だけのようだ。「飛鳥」や「ぱしふぃっくびーなす」に関しては、船内見学をしてみたが、道具らしきものも、デッキに描かれたゴルフコースも見ることはなかった。ゴルフとおはじきとゲートボールとホッケーなど、多くの要素がミックスされているからこそ、辞められなくなる。デッキゴルフがしたくて船に乗っているとは言わないが、デッキゴルフがやりたくて、同じ乗る船なら、このにっぽん丸を選んでしまう。

 村上水軍の根城だった海域に入ったのは、14時。本四連絡橋で最初に完成したという吊橋、因島大橋から、やがて瀬戸大橋をくぐる。左手の倉敷と右手に四国の坂出を結ぶ橋である。今日は、じつにゆったりとした瀬戸内海クルーズだった。海の色が緑で、白壁の建物が建ち並んでいれば、ちょっとしたミニ・エーゲ海だ。
  船は滑るように走って、波の穏やかな瀬戸内海を終わろうとしている。最後の見せ場となる、世界一の(世界一長い吊橋、世界一高い吊橋)明石海峡大橋が、22時にレインボーカラーに明かりが変わるというので、操舵室は時間を調整しながら航行した。

 淡路島と和歌山の間、友が島水道を抜けて、翌朝、四国の小松島港に着岸した。埠頭には、阿波踊りで歓迎しようと、鳴り物の人、踊り手が集まってきていた。早い者は下船をし始める。淡路島まで遠出をするオプショナルツアーバスが出るからである。淡路島では、神戸震災で起きた断層の亀裂を見てくるらしい。鳴門の観潮船組もいる。
 ツアーバスの発った後で、埠頭にタクシーを呼んだ。大鳴門橋の袂まで走るのだ。「ホテルも土産物屋も一年で一番高い値段を付けている。タクシーは特別 値段ではないでしょうね、って、お客さんに言われてしまうようじゃあ、いけないね。商売として。4日間で1年分の商売にしようと考えていたら、みんな踊らなくたって狂っちゃうね。如何ですよ。なんとかせんと」タクシードライバーが言う。

 阿波踊り最後の日を迎えている徳島の街を抜け始めると、ポカリスエットのロゴが何度も目に飛び込んでくる。オロナミン王国に入ってきたのだと実感させられる。やはりここも、企業城下町である。紛れもなく、大塚製薬の国である。鳴門の波が見えてくると、大塚という文字は、さらに増した。新聞紙上でよく見かけた赤い大塚御殿の真向かえに、岩を刳り貫いた大塚国際美術館があった。入口は簡素である。しかし、「国際」と名付けているスケールがやがて判った。長いエスカレーターを登っていったそこがまず、地下三階である。エントランスホールの奥の空間に、システィーナ・ホールと名付けられているように、バチカンのシスティーナ礼拝堂が原寸大であったことだ。「天地創造」から「ノアの洪水」までを描いたというミケランジェロのフレスコ画と、正面 の壁画「最後の審判」が原寸大であるから、礼拝堂も原寸大になっている。インパクトが有り過ぎ、まず、度肝を抜かれた。

 入口を地下5階とすれば、地上3階、床面積8,897坪の建造物である。大塚製薬創立75周年記念事業で設立した岩盤の中の美術館。熱海のMOA美術館を思い起こした人が多かった。しかし、ココは5階フロアに展示された日本最大の常設館である。世界の美術を写 真陶板に焼いた原寸大が、古代から現代までなんと1074点もある。
 コンクリートの原料として採取されていた鳴門海峡の白砂をタイルに出来れば付加価値は格段の差である。この発想を技術力で現実の商材にした二人の技術者がいた。やがて、1mx3mの陶板を生産可能にする、世界に類を見ない技術が開発された。大型写 真陶板は美術作品に永遠の命を与えた。それは、色あせず、破れず、崩れず、2000年以上の保存にも耐える美術作品になったからである。1074点を観られる一般 入場料は3,150円也。特に8月は無休である。ルーブル、プラド、エルミタージュ、それに、地中海遺跡の場に足を運ぶ前に、ここに来ておくべきだと思った。「モナリザ」に「裸のマハ」、「ラ・ジャポネーズ」に数センチに近づいても、睨んでいる守衛はいない。
 触れる世界的美術作品が、この日本にあったことを知るべきである。入場は16時まであることを考えても、神戸淡路鳴門自動車道を利用する高速バスなら、簡単に来られる。ヨーロッパ旅行するなら、まず鳴門を忘れないことだ。

 鳴門には、もうひとつ国際的なポイントがあった。ドイツ兵捕虜の演奏がきっかけで、日本全国、年末に第九が歌われることになった、そもそもの発祥の地である。だが、寄っていく時間はなかった。
  「今夜が最後だが、警察は大変だ。よさこいの時はこっちから高知に応援に出るが、阿波踊りの時は、あっちから警察が来てくれる。ねぶた祭のように、騒動が起きて、観光客が来なくなったら、どっちの県も大変だからねえ、持ちつ持たれつさ。」帰路、タクシードライバーがこういった。130万人の観光客を他県からも応援に来れる警察官と見守ってくれているのだ。

 急いで軽食を食べて、小松島港から徳島市内に向かうツアーバスに乗り込む。今夜の阿波踊り、徳島市庁舎前の演舞場に座るために、である。屋外演舞場は4ヶ所。屋内は3ヶ所。町中が踊り場になっている。
 にっぽん丸の船客も揃いの衣装で連を組む。総勢60名が参加する。こうした座席もチケットは「ぴあ」だった。予約済みの特設ステージ最前列で見物することが出来た。阿波踊り最後の日である。見る見るうちに、桟敷の席が埋まっていった。スピーカーが、次々繰り出してくる連を紹介する。あの鉦(かね)が近づいてきた。地響きのような太鼓の音が沸き上がってきた。このお囃子の音を「ぞめき囃子」というのだそうだ。

 「わかじ連」が入ってきた。「悠久連」と次々に連が紹介され、目の前を踊り抜けていく。見事な南国のマスゲームである。今夜は最終日の15日。我々の前には、「マイクロソフト連」の先頭を森脇健二が踊り出てきた。こうしたタレントは、企業の連では、広告に関係した企業に参加を促されるのだろう。12日には、「大塚はつらつ連」に大村昆夫妻が、「ドコモ四国連」に高橋英樹、13日の「ファイザー連」にガッツ石松、「日清どん兵衛連」に鈴木紗里奈が踊ったとパンフレットには書いてあった。多くの子供は3歳からデビューすると聞いて驚く。
 こうして真直に観ると、早いリズムになっても、緩やかに動かす女性の指先の動きが何ともなまめかしい。顔の前で、鳥追笠の上に挙げた両手の指をリズミカルにくねらし、繰り出す足の塗り下駄 に交互に爪先立ちする踊りは、かなりヘビーな運動量だと思うが、どの顔もとてもにこやかな表情をしている。しかも色っぽい。
 ベースの役割をする大太鼓、リズムを刻む締太鼓、大鼓(おおかわ)と呼ばれる鼓、夜空にもの悲しく響く三味線、メロデイを聞かせる笛、そしてこの囃子をコントロールする重要な鉦。夏祭りの中でも阿波踊りの音は、独特なのだと思う。
 「娯茶平」は、踊り手よりも、鳴り物120人が先頭を切ってきた。連は300人。もうマスゲームそのものである。踊り手で目立ったのが、岡秀昭連長。漁師が網を打ち、たぐり寄せるようにする手捌きから踊りが編み出されたという。腰を落としての男踊りとは、相当に体力が要る踊りだ。緩やかに見えるのは、腰がぐらつかないからだ。
 「みやこ連」に数時間講習を受けた「にっぽん丸連」が入ってきた。にわか仕込みにしては、なかなか乗っている。キャプテンもチーフパーサーもドクターも踊りに酔っている。
 有名連が続々と躍り込んできた。阿波踊りは、徳島城完成の祝いを無礼講ではじめたのが始まりと言われている。「蜂須賀公が〜今に残せし阿波踊り〜」と歌われるように、武家屋敷の町からは100名の「殿様連」だ。頬被りに提灯片手の暴れ踊りは豪快だった。あの蜂須賀小六の息子、蜂須賀正勝は尾張國で豊臣秀吉に仕えた武将だと聞いては、まんざら、名古屋人として悪い気はしない。
 会場に赤や青の渦を創りだした「阿波扇連」は、身体を大きく見せて、聞きしに勝る見事な踊り手の連だった。鳥追笠の女踊りでは、手捌き足さばきに色気を感じるが、腰を低くした男踊りは見ているだけで、腰が痛くなる。「ささ連」の考えられたフォーメーションに桟敷から拍手がわく。
 徳島の町々では、こうした踊りの練習が、5月くらいから始めるらしい。単純な二拍子の踊りの中に、様々なフォーメーションを組み込んで眼でも楽しませてくれる。中でも、「阿呆連」のフォーメーションは、何種類あるかと思えるほど、バリエーションが多彩 だった。これは確かにトレーニングが要る。提灯を手にして踊るのは、明かりがない昔の苦肉の策だったらしい。 だから、両手にした堤灯も、ろうそくを消さないよう、燃えないような所作で踊る振り付けには、ただただ感心するばかりだ。
 「やとぉさあ!やっと!やっと!」間の手を掛け合って踊る阿波踊り、初めてこの熱い満席の桟敷席の中に自分を置いた。TV映像でみる以上に興奮する。

 昔の話だが、京都私立芸大から新人デザイナーが我が社に入った。奇妙な条件を会社に提出して認めさせた。8月の阿波踊り期間は、無条件で業務を休むというものだった。実際に彼はそうした。仕事はパワフルでセンスもよく、イラストに関わる賞は総なめしたと記憶している。広告業界でも有名人となった。しばらくして、独立した。いまは推しも推されぬ 、版画イラストレーターとして活躍している。無償ヒゲを生やした憎めない顔つきの彼が、いまもこの街の何処かの演舞場で踊っているのではないかと想った。彼の名は木田安彦。日本の祭りを描かせたら、彼ほどに懐かしさと暖かさを充満させた絵はないだろう。京都が生んだ世界的版画家となった。
 高知の「よさこい」は、団扇や提灯の代わりに田で雀追いの道具だった鳴子を採用した。鳴子を手にして踊る分、切れのリズムが出る。そして大掛りなのは、先導するのが装飾されたトラックである。阿波踊りで連の名前を高々と示す提灯の役目をするだけではなく、大音響の拡声装置を積んでいる。高知市内の13会場で爆音と化す。
 「よさこい」は、あの山内一豊の高知城築城をしたとき、工事場で「ヨイショコイ」とかけていた掛け声とも言われるが、ペギー葉山で蘇った哀歌が“佳さ恋”とも聞こえる。「ヨイヤサノサノサノ」という掛け声もリズミカル。阿波踊りの有名連に比べると、「よさこい」の踊り手は、1回限りのチーム編成だそうで、5月、6月頃に集まって練習して踊ってまた解散するとか。100名くらいのチームになると、どこで練習するのだろう。
「ソイヤ、ソイヤ」の掛け声で、原宿のホコテンから生まれたストリートパーフォーマンスの「一世風靡」が、柳葉敏郎や哀川翔、勝俣州和を生んだように、この中から、そうした若いダンスグループが出てきそうだ。そういえば、「ア、ドッコイショ、ドッコイショ」の掛け声も歯切れがいい。サッポロの「よさこいそーらん」も、この若いダンスパーフォマンスが充満している。なにせ、コスチュームがジャパネスク、派手。音楽のアレンジも凝り始めている。なるほど、学生主体からスタートしただけのことはある。癌闘病中の高知生まれの母親に、北大生の息子が、サッポロで見せてやりたいとの一心で企てたことが始まりだと言われている。それに高知のセントラルグループが5年間も北海道遠征の応援をし続けたことが知られている。
 ピンクレディ以来振りを覚えることに抵抗感のなくなった日本人は、カラオケのカスタネットよろしく、鳴子をリズム楽器とする。ニシン漁の漁師の踊りと鳴子の音。海の魚と畑の米。どちらも自然の恵みを感謝していると思えばいい。観光客もそれを念頭にいれれば、肉食国民ではないことを自覚できる。300チーム以上、踊り手も4万人、観客200万人と聞いてしまうと、先に書いたように警備が気になる。東京でも、高円寺阿波踊りには60連の参加があるそうで、数千人の踊り手が出るとか。浅草にも下町七夕祭りでは、ヤットサ、と言って浅草写 楽連が踊る。
 夏の終わりの踊りといえば、「浅草サンバカーニバル」だ。打楽器隊が打ち鳴らすラテンのビート、露出度の高いコスチュームに羽根飾りのダンサーたちが、お江戸の下町で軽やかなステップを刻む。本場リオからのダンスグループも招待してのパレードコンテストも含めた三日間。下町の活性化を図ろうと芸人故伴淳三郎の提唱で始まったとも、台東区長が浅草の新しいイメージをつくりたいと提案したとも言われる。奇妙な組み合せだと思っていたが、「サンバ」は、どうやら、祭御輿のリズムに通 じるのだという人がいた。バンコックで盆踊り大会が、バリで阿波踊りが盛んだとしても不思議はないか。
 街の活性化、ふるさとへの呼び戻し、観光客の誘致策、花火にもいえることだが、宗教がかった祭りとは一線を画した、やっぱりホコテンのエネルギーなのだ。

 町中に湯気が立っているような気分の中、徳島を後にして、小松島港に戻った。
 豊臣秀吉を祀った大きな豊国神社が、この小松島にあったとは、名古屋はここでも繋がっていた。
 離れていく街の灯を船尾にある展望風呂に浸かりながら眺める。にっぽん丸だけに贅沢な設計だ。船は、紀伊半島、串本を午前3時に通 過して、翌16日、最後のデッキゴルフを楽しんだ。遠州灘から神子元島を11時45分に航走。そして駿河湾沖の頃、船室のTVをつけた。宮城を中心とした地震が11時46分に発生したことを知る。二日ずれたが、TEC21の予告が当たったとも言える。

 徳島のタクシードライバーが言っていたことが面白かった。「ここはアホばかりが集まる。踊る阿呆を見に来る阿呆、陸地を歩けば、オオボケ、コボケだ。おまけに、鳴門の渦潮まで左巻きや。ここは、阿呆で金儲けしよる。」

 シャッター街が多くなっている。団塊の世代が自分の故郷に帰りたがっている。地域の祭りが盛んになることは、親と子供の会話が増えることでもある。祖父と孫が話す。住みたい町が増えることである。浴衣にへこ帯、下駄 に鼻緒、綿菓子、生姜糖、焼き唐もろこし、金魚すくい、こうした思い出が継がれていく。いいことだ。

萩原高の部屋TOPページへもどる    ▲このページのTOPへ▲    ソーホー・ジャパンのHPを訪問する