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 10月から11月にかけて、二度も九州に飛ぶことになった。 一度目は、大学のクラス会が宮崎で行われたためだった。大学を卒業して既に43年が経っているが毎年集まるのである。誰かがいつか倒れると会えなくなるとして、毎年になっている。 二度目は、名古屋の若手経営塾の塾生たちの同窓会と銘打って、久方ぶりに歓談しようと、博多に飛んだのだ。どちらも、僕にとっては、会うのが楽しみな日だった。

 旅は、船旅に限るといいながらも、スポット的に時間効率を考えれば、空の便がいいに決まっている。ところが、報道によると、JALは、国内便数を減らすとともに、人員削減を打ちだした。コンピューターシステムの重装備により、機体が大きくなるに反比例してコックピットには2名体制となってから随分と年月は経った。昔は、各国の空港で日本人整備士のツナギの服を見かけると、なんだかほっとしたものだが、いまではその姿を見ることは難しくなったようだ。組織のスリム、効率だとかの掛け声でどこの企業も、アウトソーシングを敢行した。アジアへの 進出にも拍車がかかった。技術力を誇った多くの日本企業も、価格競争のために中国を世界の工場とした、その過剰な依存が、いまあちこちで反動をうけて、手痛い結果 を招いている。 航空業界では、経営効率を追いかけたせいか、今年に入ってからも、かなりの回数に整備ミスが目立つ。 僕が福岡空港を飛び立った11月の2日、伊丹空港では、JALの1509便が管制官の許可ミスで着陸をやり直す人為的ミスが起きた。同じ日の夕方には再び、高知上空でJAL1870便に計器の異常表示が出て、緊急着陸した。こうまで頻繁に起きると、最近の飛行機は危険でありすぎるというカミサンの気持ちを変えさせるのは難しい。テロという外敵ではなく、運輸関係内部のゆるみでは、ますます客足が落ちていく。かつてのナショナルフラッグが失墜し始めている。JALの経営改革案は、安全運航対策費に600億円を投じるとした。社長からは、「挑戦者になる」 と言う言葉が出たそうだ。JASとJALの経営統合が、乗客の安全を不確実なものにされたのでは、ライバルに差がつく。日経ビジネスにも、企業トップのビジネスマンが選ぶエアラインでは、ANAに座を奪われた。北米も欧州もアジアオセアニアもANAが抑えた。 1800年代に掲げたANAのキャンペーンスローガン「世界品質」が懐かしく思い出される。日産がB−1という車で、花王がアタックで、アサヒがスーパードライで、互いに市場奪還を計っていた広告業界のバトルが面 白い時代だった。その「世界品質」のANAが、「安全品質」をアピールするかのように、全国から羽田の機体メンテナンスセンターを見学させ、パイロットや整備士と交流、一泊二日都内フリータイムとなる、ちびっこの「体験見学ツアー」を売り出した。社会的存在感のある企業こそ、経営者は、ブランディングに意を注ぐものだと思う。

 九州へ二度飛んだ話しに戻そう。 10月最後の日曜日、30日、宮崎に向かう我々の便は、ANA。7時02分発のはずが、滑走路で停まったまま、長い時間待機した。何度も、ジェットタービンが回ったが、飛び立たなかった。はじめは、滑走路が混んでいるものと思っていた。しかしやがて、アナウンスが流れた。 「オイル漏れがあり……、修理のため…………、ゲートに引き返すことにします。…………お急ぎのところ大変御迷惑をおかけいたしますが、一旦、ゲートまでお戻り下さい。…………準備が出来次第、代替機にお乗り直し下さい」 我々の仲間には、朝3時40分のバスで家を出てきた者がいた。宮崎では、10時からゴルフコンペがスタートするのだ。この日は、大学のクラスメイトと、2ラウンドゴルフを楽しもうとする初日になる日である。毎年旅行する場所を変えて行なうクラス会では、有志によるゴルフが主体になり、いつのまにか、2ラウンドをするようになった。 東京からの出発時間が大幅に遅れることを知らせる必要があった。博多に住んでいる幹事は慌てているだろう。既に前日から先乗りしていた名古屋からの同期生たちは、ホテルからゴルフ場に向かっている時間だった。そう言い合って、携帯電話で連絡するが、こういう時に限って、誰もがなぜか、スイッチを切っていた。おそらく、パットの練習でもしていたのだろう。 機は、かなり遅れて、9時00分に飛び立った。距離を時間で稼ぐ効率的なツアーも、一旦歯車が狂えば、それに代わる次善策はない。こういうときは眼下の景色が、なかなか動いてくれない。10時30分着。宮崎空港ではタクシーで急いだが、結局、その日のスタートは11時20分になった。ハーフしか回れないだろうと諦めるほどに、極めて遅いティアップになった。それでもラッキーだったのは、ANA(スカイホリデー)のパッケージツアーだったからで、無関係の予約プレイだったら、スタートできたかどうかも危ぶまれただろうと、幹事を仲間がほめた。そして、 ここでもANAが慎重に代替機に切り替える勇断をしたという好意的な意見、「命拾いをしたんだから、ANAに感謝したいね」という言葉が出た。 宮崎カントリーは、女子プロの最後のトーナメントが行われるコースである。歴史も古く、松林も海風もあり、挑戦したいとリクエストが高かったコースである。遅れたことで日が暮れないうちにと焦る気分が皆にあったことは確かだった。狭く難しいコースをスライサーの自分は、懸命にリカバリーするものの、3ホール目辺りから、なんと雲行きが怪しくなってきた。悪いことに、雨が降りだしてしまった。6ホール目から、それは台風さながらの風雨と化した。傘に雨粒が音を立てて降る。辺りが煙るほどの激しさになった。グリーンの方向がほとんど見えない。グ リップが緩む、などということよりも眼鏡をかけていられないのだ。霧よりも始末が悪い。さらに海からの風も加わってきたようだ。打った球が失速する。落下点に球が見つからない。パットをする横で傘が転がる。グリーン上のボールは這っているかのようで、打てども打てども、水の勢いで止まってしまう。嘆きのうめき声が出るばかりだ。女子プロのトーナメントがこれから行われるということで、ラフは深いままにしてあるという。しかし、コースの難しさがよく判らないあの雨だった。散々な初日となった。トーナメントプロは、こうした一打に予選通 過がか かってくるのだから、凄い。寒くはなかった南の地では、まだ台風が遊んでいた。考えようによっては、空から降りていたから良かったとも言える。 シェラトンホテルで懇親会の翌日は、念願のフェニックスコースとなったが、宮崎カントリーでの後遺症があってか、さらに大番狂わせとなった。園内のシャトルバスでクラブハウスに着いた。ゆっくりと9時18分のスタート。曲げない球筋をもって、尺取り虫がいいのだとは聞かされていたが、防風林の松林は、流石に手ごわく、微妙に枝が交差して出口を作ってくれない。松の幹が、あたかもバスケの敵の千手観音のように見える。「タイガーウッズは、この景色を知らないだろうな」苦笑いする顔もこわばってくる。住吉コースから日南へとラウンドした。このシー サイドコースは、ヘリ撮で眺めるコースだった。 ここも、男子のダンロップトーナメントがこの後に行われるコースである。後でTV中継が楽しみだぞと、自分たちのスコアよりも、違う楽しみに頭を紛らわせた。朝のうち雨がぱらついた。昨日以上の困難が予想されたが、幸いにも雨曇りの空で終わってくれた。 なんとか、ハイレベルな2コースプレイを終えて宮崎空港に戻るころ、上空は澄み渡ってきた。運がないということか。機内では、ほとんどの者が疲れ果 てて眠りこけていた。一眠りしたら羽田空港に着陸していた。宮崎からシートに倒れ込んでいた時間を考えると、同じゴルフでも、千葉から渋滞の道を帰るのと変わらない時間である。これに少し似たことは、少し前にあった。狭山の大学に通 勤していたときなどは、上野から自分の研究室に座るまでと、名古屋のホテルに入るまでとがほぼ同じ時間だった。退社したばかりの通 勤客に紛れると、いままで、自分が福岡 にいたとは思えないのだ。 日本は狭い。それほどに飛行機は時間を短縮してくれていた。車は、高速道路の料金所に設置されたカメラが記録する。繁華街にもCVSにも、人の動向が写 し込まれている。空港のゲートから通路までも監視カメラがあるだろう。カメラには死角がある。毎日この時間をすり抜けていく人物は、何万人もいる。携帯電話もアリバイ工作に使われる時代になり、なんだか、「サスペンス火曜ワイド劇場」の犯罪者を演じているような錯覚に陥った。東京人が成田の国際空港まで行く時間距離と、博多人が福岡国際空港までのそれは、余りにも違う。市内にある空港から、 博多の人は、すばやく海外の人になれる。 ドイツの郵政事業が、あのDHLを傘下に治めたという。DHLの専用機が、真夜中に地球を飛び回っている。時差を利用して荷物が届く。有るはずもない場所に、飛んでもないブツが、たちまち飛んできて、有るようになっていく。知能犯犯は、時間と距離を埋めていく。警察の初動捜査以前に、犯罪は時間を消していく。ネットと携帯電話は、距離を消していく。便利さは、安全を裏切っていく。

 二回目の九州は、博多となった。二度目もANA.この時は、先回とは打って変わって晴天だった。車輪が下りた。機体がぐんぐん下がっていく。オオワシがヒヨコに覆いかぶさっていくような機影が見える。左右に走る高速道路上の車を目がけているかのように、街の上を低空飛行して滑走路に入る。昔の香港のようだ。 地下鉄で天神まで数分。昭和通り沿いのホテルで、名古屋からの筍塾生OBと落ち合う。久しぶりに天神の街を抜け、ハイアットのラウンジで一休み。コーヒーを飲みながら、旧交を温めた。みな、若くして一国一城の主である。異業種である。塾生には、レストラン経営者もいた。大手予備校で生涯教育の責任者もいた。技術開発の会社を営み、博士と呼ばれていた方もいた。IT分野の社長も、アパレル関係者も、番組制作会社も、Tシャツ専門会社も、インテリア雑貨の輸入商も、ガーディニング関係社も、イベント会社も、それは様々な分野の若い熱い経営者の 集まりだった。オーケストラのような研修の集いで、それが、コンボになったり、クインテットになったりして、自分たちの事業に異なった畑で生まれた種子を自分の畑に移植しあった。その中の有志が、九州での業務コンタクトを兼ねて集まった。
キャナルシテイに来たのは、某社の顧問として、量販店での販促ディスプレイを確認するために来て以来、2年ぶりになる。前回では時間がなく、ハイアットのカフェルームに座ることが出来なかった。ここから眺める半球形の建築フォルムとダンシング・ウオーターをゆっくり見てみたかった。サンプラザステージでは、キャナルシティにある劇団四季のメンバーだろうか、「美女と野獣」の歌が、狭いスペースながら、ハロインの衣裳をした親子を集めて楽しませていた。訪れた客には絵馬のように、願い事を書かせたカボチャ色の風船が池に何千個も浮かばせていた 。巧い舞台装置になっていた。運河というよりは、ショピングモールに噴水を導入するため、池を創ったようにしか思えない。なぜなら、その風船を浮遊させるためにポンプが活躍していた。地元の人に聞くと、七夕の短冊が飾られたり、特別 な山笠が創られたりするという。ここには、TDLのスタッフみたいな若い人たちが甲斐甲斐しく立ち働いていた。 中州と博多川にはさまれた場所だが、流水の趣を感じさせる、動いている川とはいえない。人工の運河らしい。実際に川から引き込んだとしたら、台風の際には、水浸しになる。ただでさえ、風雨が吹き込むオープンエアのデザインフォルムであるから、管理が大変である。この低い水量 でいい。ウオーターフロントのカフェやレストランが好まれるように、水面 があるだけで気持ちが落ち着く。 東京の友人が名古屋にきて、坂のない街だといい、大阪の友人が東京を水のない街だという。そう思うと、サンクテペトロブルグやアムステルダムは住みやすい街になるのだろう。ベルギーのべルージュも、蘇州も・・・・。 しかし、この周辺は男の遊び場があるところだ。博多の中で、ここだけは周辺とは唐突に隔離された別 の雰囲気を創った場所である。川を隔てたラブホ街にも、イタリア人設計士によるホテルが辺りの空気を払うように建っている。筍塾の事務局長が定宿にしているホテル・イルパラッツオだ。港湾地域が再開発されるのは、シンガポールのクラークキーあたりもそうだ。ウオーターフロント開発で百道が、富裕層の住む高層住宅を建てて、ニューシティを創った。 青山に京都の企業、ワコールがスパイラルビルを造り、骨董通りに「ブルーノーツ」が開店しただけで、周辺のカラーが変わっていったくらいだ。ヒルズ族という言葉を創らせた六本木のように、新橋にもこれからリトルイタリアが次第に形になってきた。今度はいったい何が生まれるのだろうか。建築物が人を呼び寄せ、地域を変えていく。アドマンが生活のモデルチェンジをさせていくよりも、アーキテクチャーのほうが現実的な実行者なのだと思い知らされる。ただ、「佇まい」という、長い時代の空気を壊してまでは欲しくないのも正直な気持ちだ。黒い甍がな くなって日本だと、鯉のぼりの風景もそぐわなくなるのが悲しい。ただ、目立てばいいと言い続けるクリエイターの15秒CMの氾濫は、映像から情感すらも切り取ってしまっている。 そう思いながら街に歩きだした。福岡の焼酎試飲会イベントを見つければ、駆けつけて飲み、そこに集まった人たちの会話に耳をそばだて、街の看板に評価を下したり、目に留った店に入るや、店員試すようなやりとりで、その店の客筋や仕入れ先を推測したり、いわゆるフィールドマーケティングまがいの街観察をしながら、歩いた。 僕の好きな春木橋の鉄鍋餃子屋はあいにくと日曜日のため、閉まっていた。中洲川端まで歩き、中村屋勘三郎に入った。漆塗りらしい黒光りの内装だった。東京にも名古屋にもない店創りだなあと、御簾で区切られた一部屋に案内された。日曜日のためか客は少なく、落ち着けた。思い思いの焼酎を飲み、さらに博多っ子気分になろうと、川岸にならぶ屋台の椅子に座った。 夜になると寒かった。東京からずいぶん南下した位置なのにというのが思い違いであった。福岡は、玄界灘という日本海に面 している都市だった。そう気づいたら、天神までの帰り道、ビルの足もとに明かりが灯る屋台がとても暖かなものに思えてきた。影絵のように動く人も。 翌日は、元の会社の九州支社にいたクリエイターK君とグランドホテルで御茶をした。ここでも、ガラス1枚むこうには、水景色が創られていた。K君は新しく出来た九州国立博物館にでも来たのかと訊いた。東京、京都、奈良に次ぐ四番目に国立博物館が出来たのだから、是非にも行ってきてくれと勧める。太宰府は確かに日本の外交と軍事の重責を担った場所であることくらいは解るが、博物館が出来たことは忘れていた。次回に譲ることにした。 夕方には、もう一人の友人と待ち合せていた。永年の間、音信不通 だったのだが、突然、メールが飛び込んできた。僕の年賀状にあったメールアドレスを打ったのだという。一瞬のうちに彼との長い時間が埋まった。彼にもメールアドレスが出来たということだ。今の時代、こういう繋がり方が有り難い。 中洲に出て、第一ホテルの地下にある「博多楼」に座った。彼とは東京での仕事仲間だった。札幌から東京に出てきたデザイナーで、僕のグループにいたI君の友人だったので、ビール会社のパンフレット制作を頼んだ後に、続いてアイスクリームの新製品パッケージデザインを頼んだ。しかし、岩田屋の仕事をするために社命で福岡に転勤してしまった。この福岡で知り合った男性モデルに勧められて馬に乗り初めたことで、彼の人生観が変わったようだ。その男性モデルは、以前黒沢組の役者だったらしく、映画「乱」で、阿蘇の山裾を駆けずり回っていたそうだ。 馬に乗ることで、生き物と接し、自然と接し、風を感じて、今までに無い自由を感じたという。札幌から出てきた彼には、東京は住みにくかったに違いない。水平線の見える風景は、再び彼に活気を与えたのだという。敦煌の映画出演もした馬の師匠について、大自然を走り込んでいた時、再び社命で東京本社に呼び戻された。東京では、デザイナーら仕事仲間を馬に乗せようと、小淵沢辺りに走りに出ては教えたのだが、大分の飯田高原でのキャトルトレーが忘れられない。エルランチョが懐かしかった。彼は、勤務先の役職を捨てて、福岡に戻っていった。それから 彼の消息が絶えたのだ。メール通信が出来るようになったことが再会に漕ぎ着けた。 「紐1本で生まれる生き物との関係、たまらんのですよ」彼は、馬の話になると、顔が変わる。僕が馬に乗ったのは、高校二年生の白樺湖だった。それ以来皆無である。道筋のついていない草原を人馬一体となって自由に遠乗りする気分は、まだ誰も降りていない山肌にシュプールをつけて行くような爽快さだろう。いまの生活は、と訊くと、安定的な収入は嘱託デザイナーをするものの、自然に接して暮らしたいという気持ちが強かったので、自分だけ福岡から離れた田舎の一軒家をアトリエにして住んでいるという。「そこは女房も踏み込まない、僕だけの天国です 」と誇らしげな顔をした。 そもそも、アトリエ探しをして、郊外を何日も歩いたという。とある家で物件を打診すると、その屋の主もアーティストだったとかで、意気投合してしばらく居候をした後に、一軒家を見つけたのだ。そこにまた、羨ましい環境があった。日本で一番美しいと彼が力説する海岸が近くにある。名前は芥屋(けや)海岸という。彼の御気に入りの遊び場だ。ここは、東京スカパラがサンセットライブをやったらしい。夏は素潜りを楽しんでいるという。近所の人の持っている漁船で魚釣りに出かけると、イカやサザエや1mの幅があるヒラメなど、東京では口に出来ない新 鮮な魚介類が食べられる。カボチャを始めとする野菜畑が家の前に、横には花畑。当然、隣組だとしていつでも持っていけと差し出される。抱きかかえるほどに渡される。健康的この上なし。 道角に地蔵が立っているそうだが、毎朝その辺りを掃除していたら、御寺の住職から仏像を描いてくれと所望された。汚れないようにと、アクリル画にしたら大層気に入られてしまったそうだ。彼の絵は、今度世界中からアーティストがメキシコに集まるというアートキャンプに日本代表で招かれているという。 話しているうちに実に面白いことが起きた。彼の住んでいる住所は、糸島郡志摩町大字桜井である。この場所に僕は当然だが、行ったことはない。しかし、名古屋人の僕には、志摩町という名前は、伊勢志摩の志摩町であるから、耳に残っていた。同じ地域に、僕の大学の部活の後輩M君が住んでいる。正確に書けば志摩町岐志というところだ。ANAに勤めて、つい最近リタイアした。彼に話したら、「そういえば、長細い家が建っている。なんでも、ANAのパイロットを辞めた人らしい」噂というのはこうなるのだと思った。M君は、ANAホテルに勤めた後、仙 台の空港ビルの役員を終えて、志摩町に戻ってきたのだ。ANAというと、パイロットになるんだ。そういえば、M君はそういう端正なイケ面 男だ。今度、僕との関係を言って訪ねていけば、と言っておいた。 「世界中の人は、六人の人間関係で繋がる」という。『六次の隔たり』というやつだ。(ハーバード大学スタンレー・ミルグラム教授が提唱した “6 degrees of separation” 理論)。不思議なことに、ここで二人の関係が繋がってしまった。 いずれにせよ、久しぶりに会って飲んだ友人は、人生二毛作を楽しんでいた。 翌日、天神駅周辺をもう一度散策した。地下道のアパレルショップのセンスを見たり、岩田屋の中も歩いてみた。地下の食品店を見てみた。土地の老舗を見ることが出来るからだ。こうした視察は、地方の得意先を担当するときの癖で、まだまだ広告屋の気持ちが拭い去れないままだ。 天神から地下鉄で11分、福岡空港に着く。空港には、ここがアジアのハブとしての存在感と滑走路の拡張の必要をアピールする掲示コーナーがあり、地域住民へのアセスメントのアンケート調査を促すパンフレットが積まれていた。市内にある空港という国内でも希有な地理的条件は、また一方で香港の旧空港と同じ問題を抱えているようだ。 昼間の飛行機は気分がいい。窓に射す太陽が気持ちいい。日本一美しいと教えられた芥屋の海岸は見つけられなかった。 眼下に東京湾が見えてきたが、唖然となった。東京の上空が一面のガスで覆われていた。明らかに、一枚の毛布が覆いかぶさっているように見えた。飛び立ったときに眺めた福岡の空を想いだすにつけ、これほどまでに違うのかと驚いた。この汚れた空の下で毎日暮らしているのだ、東京人は・・・・・。低く垂れ込めているのが雲とばかりは言えまい。喘息になるから、八ケ岳に子供と暮らすことにしたという友人の気持ちが解る。 「汚れちまった悲しみに 今日も小雪の降りかかる。 汚れちまった悲しみに 今日も風さえ吹きすぎる」中原中也の詩が口を突いて出た。

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