過日、母校のマスコミ就職ガイダンスなるものに、講師として要請され話してきた。会場は、我々の時代には建っていなかった高層ビル。どうやら、教授会の会議室らしく、椅子も机も上等品。黒板、いやホワイトボードも壁に隠れていて、観音開きで横に開けるスタイルだった。

久しぶりに母校の学生を眼にして唖然とした。なんと、座っている学生が女子大生だらけ。考えてみれば、名古屋からここへ入学したときは、正門から図書館までの並木通 りを顔をあげて歩けなかったくらいだから、女子大生の多いのは解っている。なのに、はや卒業して30数年経っていたためか、忘れていた。これまで長い間、大学で教えてきていたとはいえ、男女入り交じっていたのだ。はっとしたが、目が泳ぐ。目のやり場に困る。・・・・自分の大学で教壇に立ったことは一度もない。自分の経済学部ならまだしも、今日は文学部である。これが当たり前の光 景であるのだと思い直した。

この大多数の女子大生が、我々の働いたマスコミ系の世界に入社したいと考えている。正直に書けば、ぞっとした。男女差のない業界だが、体力差がありすぎる。体力勝負といってもいいくらいにハードな業界である。ペンと紙の世界だとは言えないのだ。いまは「マスコミ○○会」が結成され、毎年暮れの総会では、志望学生も招き入れて、就職相談の質問にも答えてやれる機会を作った。 しかし、この大学で僕は就職に関してあまりいい想い出はない。就職課員と言い争ったからだ。僕の社会への扉は、口論からスタートしてしまった。

僕のゼミは、「広告論」で、日本で「マーケティング」という概念を植え付けたと言われる、最初の実学経歴の教授だった。「広告論」とはいうものの、ゼミ教室での実際は、「統計学」で、僕の最も苦手とする数字だった。それも毎回原書を読まなくては前に進まないというゼミだった。先輩の後をうろうろしては、教授が受けたアンケートの仕事を手伝っていた憶えしかない。広告業界を志望しているといったら、教授はかなり可愛がってくれた。当時の多くの先輩たちは、御多分に漏れず、金融証券系が多かったようだ。教授は、このゼミから広告業界へ誰かを出 したかったのだろう。原宿の自宅にも何度か御邪魔した。当時は、就職先にゼミ教授の「推薦状」が、必要な時代だった。教授は後に、父親の経営していた女子短大を4大に改革し、初代学長になった人だ。それが現在の白鴎大学である。 放送研究部員の仲間は、日比谷のLFや横浜野毛山のラジオ関東というラジオ局や出来たばかりにフジテレビでバイトをしていた。それまで、ラジオ番組を演出するか、ジャスラックに行くか、これからのTV局での報道記者かディレクターという方向を頭に浮かべていた。ラジオかテレビ局への就職を打診したらば、「大学を1年休学してでもバイトからしか入れ。アナウンサー以外、裏方は正社員を採らない」と言われた。伊勢湾台風の罹災者家族の息子が、学内浪人などできるはずもなく、局への就職は諦めた。 大学二年の秋、先輩が大学祭に大挙顔を出した。自分たちの部は、例年音楽イベントをしていた。局のディレクターだった先輩の力で、EHエリックを司会に、まだ無名の広田美枝子を日本のブレンダー・リーという触れ込みでデビューさせることになった。僕はステージ監督の役を担った。満席の大好評だった。
後夜祭の流れで、先輩と新宿に飲みに連れ出された。就職の話に終始した。アルコールの飲めない先輩が明け方まで付き合ってくれたのだ。 「揺り籠から墓場まで、あらゆる企業と接点をもって、消費者とメッセージできる」元々、高校時代から新聞記者になりたかった自分としては、この言葉に刺さった。広告会社に絞った。それが、放送研究部員でありながら、「広告論」ゼミに決めていった背景だ。 三年の秋口に、早稲田大学の演劇博物館で開設される「ラジオテレビ企画者養成講座」なるものに、大枚払って2週間の集中セミナーを受講しにいった。アメリカ帰りのH堂のジュニアが話すとパンフレットには書かれてあった。2週間空けるのだから、大学の講義には出られない。代返を仲間に頼んだ。僕の大学から受講したものはいなかった。当時は広告業界に行こうとするものは少なかった。久保田宣伝研究所発行の「宣伝会議」や、「ブレーン」を読んでいるものは周りに誰もいなかった。この雑誌は、僕の広告業界への足がかりとなったものであるから、未だ に保存してある。

実は、その頃のH堂は、指定大学にしか受験資格を与えてくれてはいなかったことを知って愕然となった。僕は、第1志望をH堂、第2志望を近畿広告(後の大広)としたが、試験が受けられないので、近畿広告を優先した。そのことを「新宿の先輩」に話した。先輩は、VOAからH堂のラジオCMライターになったので、このことは知らなかったのである。動きは速かった。先輩に運動が認められて、晴れて指定校に認可されたのだ。 喜び勇んで、第1志望の受験手続をしようと就職課を訪れた。ところが、「君は近畿広告を決めたのだ。他の学生に機会を譲るべきだ」と強い語調でにべもなく返された。 食い下がった揚げ句に、学内推薦の学生の成績表を見せられた。それが自分よりも低かったから堪らない。矛先を変えた。 「ちょっと伺いますが・・・・求人欄にあるマシダ工業というのは、何処の会社ですか?」「それは、マツダでしょうが」「だったら、一緒にきてください」「・・」「企業名も正しく書けない就職課を、求人側が知ったら情けないでは済まないでしょうね」 就職課への宣戦布告であった。
「新宿の先輩」は、ならばと、大手企業の役員をしていらした御父様から、H堂の役員にこう頼んでくださった。「こうした事情なので、せめて、最初の試験となる筆記だけでも受けさせてやってはくれまいか」 試験は明治大学の階段教室だった。首を回すと学内推薦の数人と他に顔見知りの学生三人がいた。学内推薦のない彼らはコネクションによる受験生だった。これは太刀打ちできないなと諦めかけたほどだ。帰宅して蒲団袋に布団を詰め始めた。なぜなら、名古屋の親父には、広告業界に入れないのなら、会社を継ぐという約束をしていたからである。 結果は、社長面接まで残った。合格通知の電報を片手に、就職課に報告に行った。その紙切れを課長の前に突きだした。
「・・・・・大学から社会へ入り口を閉ざすも開けるも貴方が握っているのですよね。学生の人生を変えるかもしれない。推薦された学生はどうでしたか」
「・・・・筆記試験で落ちたようでした・・」
「・・・我々の部の先輩が内側からドアを開けてくれた。しかし、推薦した学生が落ちた。あなた方の判断は、それを無にした・・・ 彼らの志望動機は僕以上に強かったのか、しっかりと聞き込んだのでしょうね」
「・・・・・」
「あなた方は、学生の人生を、殺生与奪を握っているのだ。僕は別の人生を歩かされたかもしれなかった・・・」
「・・・私だって!夏休みを取っていなかった!」
「それが与えられた職務ではないですか?貴方は毎年それが職務となっているプロではないのですか・・」
こうして、にらみ合いが続いた。

三人も合格した。つまりこの四人こそが、我々の大学からのH堂入社初年度となった。なぜならば、社内の同窓先輩は、ラジオからTVへの時代の変わり目で、多くは異なった分野からの編入組みだったからである。その後、残念ながら、同期の二人は事故死と癌に倒れ、他界した。残り一人は、レコード会社に転社して、ボブスキャッグスら多くのアーティストを日本人の耳に聴かせた。いまはあの大賀さんの秘書をしている。 不思議なことに、ゼミの先生はコカコーラの日本進出に際して市場調査をしゴーサインを出し、その先輩は作曲家・宮崎尚志さんと「スカッとさわやか〜コッカ、コ〜ラ〜」というジングルでラジオCMを創り、日本市場にコークの味を広めた人だった。 開局してまもないフジテレビにアナウンサーで入社した部活の仲間は、その後、『鬼平犯科帳』のプロデューサーになった。 それから幾星霜。僕は、マスコミに、とりわけ、志を持った学生を広告業界に送り込もうと、38歳の時から大学で教え、後に別 の大学に勤め、広告主側の広告室を創り、数社の企業顧問を引き受けた後、設立時からの専門学校講師をしている。大げさな言い方を許して貰えれば、27年、毎週大学4年の若者と飲んで、就職の相談に乗っている。かつての先輩がしてくれたように。

そして、11月29日の母校の就職ガイダンスの日となった。マスコミ業界志望の女子大生の大半は、アナウンサーであり、編集者であって、広告プランナーになりたいという学生の数はさほどに多くはないだろると思っている。一時横文字、カタカナの職業が人気職種になったことがある。コピーライター、デザイナー、コーディネーター、スタイリストなどなどである。しかしながら、これらは、企業に属することもなく、フリーランスとなった姿で誌上に現れる。既に一様の経験を積み重ねた結果 の成功者として登場するのである。そこに、どれほどの艱難辛苦があろ うとも、学生の前に出る顔は満面 の笑みを浮かべている。学生にはそれが見抜けない。誰でもこの業界への才能があるように思い込む。カラオケルームで拍手されると歌手になれるとは思わないものでさえ、コピーライターにはなれそうだと思う。15秒のCMですら、今の画面 を観るかぎりにおいては、行ってみたいロケ先で好きなタレントに商品持たせ、好きな音楽を流し、あとは7秒ほどの言葉をひねくりだせば、形になっているじゃあないかと思わせてしまう。 カレンダー通りに休めもしない、朝夜も忘れるほどにかなりの激務であること。頭のてっぺんから足のつま先の間が自分のエンジンであること。多くの競合の中で、他者と同じことが通 用しない世界であること。生理用品からレクサスまで、同じ一日の中で数商品を切り替えて考えること。マスコミといっても、広告を提供してもらう側と、広告を創り出す側では、スポンサーとクライアントの差があること。いまは、広告よりも「狭告」、受動よりも能動メディアの力が試されていること。放送から通 信へコミュニケーションの大動脈が入れ替わりつつあること。情報 がシームレスになっていること。あなた方が働くためには、何が必要になり、どう考えるかを問われること。などなど、言い尽くせない現状を、表層的に伝えるしかなかった。 現象の背景を気にしていくなら、「好奇心」より「問題意識」を持ってほしいとも。

 すくなくとも貴方は、こうして、パソコンからこれを読まれている。貴方のインテリジェンスとインフォメーションは、ネット以外他に何から得ていますか?企業はそのバイパスをいまも懸命に探り、たぐり寄せようとしています。誰もが社会人であり、企業人であるにしても、個人に戻れば、生活者であり、消費者であり、どこかの特定の顧客である。顧客であるあなた側によって、賛成多数が投じられたものだけに、「ブランド」という信用がつくのであって、新製品には決して最初から「ブランド」はないのである。 自分のアイディンティティを再確認するために今日も新卒者は、リクルートスーツで先輩を訪ねているだろう。ブランディングを創るために、今日も新製品が新聞に紹介されている。
大学全入可能となる2007年以降は、ますます大学のブランド格差に厳しさが増すだろう。「就活」は、両親でもなく家族でもなく友人でもない、自分自身の「自価(=自分価値)」を作り上げる4年間であってほしいものである。ジーパンで過ごせるからといって、大学を遊び場にしないでほしい。教授は、研究者であるまえに、若い人間の教育者であってほしい。教えを授けてやってほしい。もしかしたら、教授こそ、企業の求めるものが何であるのか、インターンシップを考える時期かもしれない。就職相談を受ける時期になると、ゼミの教授に実社会感が薄いと学 生がぼやく。就職ガイダンスをした日、そう口にした、あの学生を思いだした。彼はいま、テレビ局の報道部門を狙って面 接が進んでいる。

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