昭和34年、生まれ故郷の名古屋を後に、東京という地に生活に場所を移した。この年は、キューバでカストロが首相になり、フジテレビが本放送を開始し、日産がブルーバードを発売し、王貞治がプロ入り初ホームランを打った年である。また「少年マガジン」「少年サンデー」が創刊され、「日清チキンラーメン」と「カゴメトマトジュース」が発売された年である。
「ミッチー」という呼び名を聞くと、我々の世代は、皇太子殿下御成婚の馬車に揺られていた正田美智子さんを思い浮かべる。天皇家を再認識した、歴史的な桜咲く4月の春が大学入学の年だった。それから5ヶ月目、夏休みを終えた直後9月26日に、おぞましい伊勢湾台風によって、自然の脅威を思い知らされた。島国、日本の忌まわしい秋となった。いや、僕の生活の基盤が変わってしまった。この季節、生まれてから高校まで名古屋時代を見せるすべての写
真を濁流の中に失った。僕には成長記録がないのだ。当然のことながら、若い頃の両親の写 真はもとより、親戚や学友との写真さえない。人との絆は、心の中に残されているだけである。おそらく、神戸大震災や中越地震の被災者の方々も、この想いは同じだろう。近所の方や、カメラ仲間、同業者に温かい手をさしのべられた父は、「遠くの親戚
より近くの他人」と言う言葉を何度も語り、僕はこの経験から「友人、知人が自分の財産だ」が口癖になった。 勤め先の博報堂という会社では、社内の個人が有する情報を有効活用しようと、一時、「ヒューマン・ダム」という造語の概念が持ち上がった。企業経営にナレッジ・マネージメント(※)が取り上げられる数年前だった。社員同士が、いわゆる「人脈」を共有しあおうという動きだった。今でいえば、SNSの初期が行われていたと言ってもいい。個人個人の情報が蓄積されて、大きな力を持つ。この「ヒューマン・ダム」と言う言葉が僕は好きだ。だから、異業種交流会には、かなり積極的に出掛けたものだった。然し、リタイアーした現在は、むしろ、ノスタルジックな同期会という集まりが多くなってきた。
(※)ナレッジ・マネージメント:個人の持つ知識や情報を組織全体で共有し、有効に活用することで業績を上げようという経営手法。「KM」と略されることもある。意思決定スピードの向上、業務の改善や革新の場の提供が実現できるシステム。この場合の知識・情報とは経験則や仕事のノウハウといった、幅広いものを指す。個々人が日々蓄積していく文書を組織全体で共有し、事例や方法論について書き込んだり、過去の事例を検索できたりする。この概念を拡張する形態は日々進歩していくものと思われる。
今年も大学のクラス会に参加した。クラス会はクラス会でもそれが「大学の」というと、人は驚く。9月上旬、今年は函館大沼になった。なったというのには、わけがある。我々のクラス会は、いまでは毎年、全国の何処かで2ラウンドするゴルフコンペの後に、懇親会となる。ゴルフをしない者には、その地域の観光をするものだが、それでも出席者に賛否の意見は残る。
御多分に漏れず最初は、大学の校友会館から始まった。その席で、クラスメイトの中に癌の告知を受けた者がいた。我々が失意の彼に声をかけた。「お前が元気な内に行きたいところを言ってみろ。これからは、そこでクラス会をやることにしよう!」その言葉にクラスメイトが賛同した。それから、全国にいるクラスの者が、持ち回りで幹事役を引き受けることになった。大学のクラスメイトは、転勤先が第2の故郷となり、根付いた者が多いからだ。彼が元気である証しは、好きなゴルフクラブを振り回せることだと言い合った。ゴルフをするために元気でいたいと、彼は喜んでくれた。
ではと、関東と関西の中間、掛川から徐々に、阿蘇、そして札幌まで動いた。定年60歳になったのをきっかけに、新たなスタートを期して永平寺で泊まって座禅を組んだこともある。
それからもう14回目。今年は函館になった。彼のお陰で、全国に旅をしながら、ゴルフが楽しめてもいるのだ。その彼が、今では事前に発行されるコンペ馬券にも、優勝候補と評されるまで、元気になっている。心身共に回復して、笑顔で球を叩いている。
そもそも、大学の部活の先輩後輩のOB会ならいざ知らず、50名ほどのクラスの連中が、毎回20名前後集まっていること自体が、レアケースだろう。女房共にも信じて貰えていなかったという仲間がいたほどだから、推して知るべし、だ。当の彼自身も「誤診だったかな」と、笑い飛ばしていたら、それまでゴルフの世話役だったK君が、今春に亡くなっていたことを知らされた。K君にゴルフを何度誘っても、音信不通
になっていたらしい。幹事が不審に思って実家に問い合わせたところ、密葬とし、親族以外には知らせないことにしていたことが判った。高等部から大学時代まで、野球部で鳴らした男だった。訃報を聞かされたのは、羽田空港出発便のゲイトで、だった。こうなったら、元気な顔を見せ合いながら、2ラウンドがこなせるかどうか、体力を確かめる会になりそうだ。誰かがそう口にした。
台風13号も抜けて函館は、好天に恵まれた。函館空港では、高校まで函館にいたTA君とO君の二人の幹事が出迎えてくれた。トラピスチヌ修道院の駐車場では、ここで口にしなかったら何処で味わうんだという、リピーターのS君の強い勧めで、全員が、濃厚な味のソフトクリームをほおばった。五稜郭タワーに上がって公園を眺め、北海道では最初の路面
電車に目をやり、二十間坂や八幡坂からドラマシーンを思い浮かべ、函館の突端、立待岬では津軽海峡から本州を遠望し、浜木綿の花を見た。そして再び、空港に近い「湯の川温泉」旅館
一乃松に入った。ここは、多くの温泉ホテルや旅館が立ち並ぶ北海道三大温泉郷のひとつなのだ、そうだ。
函館に集まったのは15名。遠く福岡からはH君が、札幌からは呉服屋のT君、盛岡からはSA君が顔を見せた。今回は、最初に親睦会だ。亡きK君への献杯から始めた。近況を報告し合いながら宴会を終えた。函館山の夜景を見ないで帰るわけには行かぬ
と観光バスで登る。標高334mから眺める市街地の眺めは、函館に住んでいてもめったに見られないほど、澄み渡った夜だった。左に函館港、右に津軽海峡を挟んだ函館山からの裾野のくびれは、これまた光の海だった。
翌日の函館ゴルフ倶楽部は、湯ノ川温泉の背中にある高台で、海を見下ろしてのプレイだった。
我々は、次のゴルフ場へと北に移動した。くっきりとした雄大な駒ヶ岳を眺めながら、その裾野に広がる大沼公園に向かった。駅に隣接されたクロフォード・イン・大沼が今夜の宿である。クロフォードというのは、道内で初の鉄道を手宮〜札幌間に走らせたアメリカ人の鉄道建築技師・ジョセフ・ユーリ・クロフォードの名前だった。北海道の開拓期は、道路開発と港湾整備、そして幌内で採れる良質の石炭を港まで輸送する鉄道建設が急務だった。開拓長官の黒田清隆は、外国人を雇うことと、外国の機械を購入するため、明治4年にアメリカへ渡り、鉄道先進国から技師を招聘したのだ。この鉄道は、国内3番目の開通
だった。だから、JRが経営するアーリーアメリカンタイプのプチホテルだったのだ。15分ほど宿のバスで走った。彫刻家がデザインしたという巨石と巨木に囲まれた温泉施設『流山温泉』に浸かった。
翌日は、大沼レイクゴルフクラブで楽しんだ。一番遠距離の福岡から来たH君が、疲れも見せずベスグロだった。来年は、盛岡のS君が幹事を引き受けてくれた。
クラス会とは別に、大学の部活同期生も毎年旅行をしている。「いつか会おう」をなぞらえて、卒業直後、渋谷の宇田川町のレストランに毎月5日に集まろうと僕が決めた。それが年に1回になっても「五日会」と称して集まっているのだ。家庭に入った女性陣たちのほうが、参加率が高いのである。放送研究部である。立教の徳光、慶応の森本、早稲田の露木、そして我ら青学の能村(「鬼平犯科帳」のプロデューサー、1998年度のギャラクシー賞テレビ部門特別
賞を受賞、著書『実録・テレビ時代劇史』(99年・東京新聞出版局))が、放送界に就いた、この頃の大学放送連盟同年代である。
それは兎も角、9月末には、今度は、名古屋で高校の同期会だった。やはり、ゴルフから宴会になる。これは、東京に出てきた者たちが、電話を掛け合って、石橋エータローの経営する渋谷の魚料理屋に懐かしさで集まりだしたのが始まりだった。何度か飲み会を繰り返す内に、母校の先生を招待して、名古屋で同期の仲間を呼び寄せようと動いたのが自分。それからというもの、名古屋郊外の先輩の旅館や同期の義父の経営する旅館などを基点に、名古屋と東京の同期が集まり始めた。これがかれこれ、20数回を超えた。
大学と違い、高校の同期会の良さは、まだ将来どういう職に就くのか皆目判らない同志だったことだ。商大から防衛大など、予想もしないほどに同期は全国に広がった。然し、母校の故郷に集まりやすいのは、両親の墓参りを兼ねる、秋のお彼岸前後である。
同じ同期会と言っても、高校の同期生は、会って一言三言話せば、たちまち少年の顔に戻っていく。現在の姿にあまり重きを置いていないからだろう。空白期間が省略されていても意に介さないのだ。それに比して、大学同期生は、それぞれの企業風土、社風が人間を作り変えていくせいか、業界毎に違う口調が出てくる。会社が独身時代の男を「創る」というが、なるほど、こういうものだなと感心する。定年を過ぎても、会社の色を引きずっているのだ。男の残り香のようなものだ。読んでいるもの、観るもの、食べているものなどに格差が出る。相手との話題が、一致すると、すさまじく速く深くなる。
我々は、よく、峠の「谷間世代」と言われる。詰め襟大学服からアイビールック、蛍雪時代から平凡パンチ、モノクロからカラー、生CMからビデオCM、CFと言われたフィルムからデジタルビデオCM、謄写
版からコピー機、ポケベルから携帯電話、和文タイプライターからワープロを経てパソコン、ファックスからEメール、歌声喫茶からカラオケボックス、プロレスからキックボクシング、などなど、激変する時代を縫ってきた年代である。
10月26日は、取手国際で、元の勤務先の同期会コンペがあった。同期で鬼籍に入ったのが8人を数えた。ほんの数週間前、I君が逝ってしまった。大学時代は槍投げの選手だった。この仲間で、欠席しているのは、何らかの術後とか、介護で動けない者たちだった。
会社の同期会は、一番燃焼し尽くした姿を見てきたからか、妙に抜け殻になった好々爺の集まりである。同年では、鳥越新太郎が直腸癌、王貞治が胃ガンの手術をし、徳光和夫が心筋梗塞になった。我々の中で最近は孫の話が少なくなった。可愛い盛りを過ぎた年齢に育っているからだろう。それに引き替え、やたらに増えた知識は、薬の効果
と内臓疾患の数値である。
「自分が歳を取るにつれて、世界は若くなる」
こういったのは、バーナードショーだった。
シェクスピアは、こう叱る。『人生は短いとこぼす。だが、私には、人は自分の手で短縮しているとしか思えない。どだい、人には時の使い方を知らないのだから』。確かに、我々は短いと嘆くよりも、実はその多くを浪費しているのだ。
ノーベル平和賞のアルベルト・シュバイツアは手厳しくも、こうも言ってくれる。『人間は20歳の時は、神に与えられた顔を持っている。40歳の時は、生活に手を加えられた顔をしている。60歳の時は、彼の長所と短所、美徳と悪徳の報いの表れた顔になる』と。
皮肉にも「みらい平」という駅から、筑波エクスプレスで、窓に映る疲れた顔を眺めながら、帰ったのだ。
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