六本木の会で、『マバラ組』という仲間がいる。朝までテレビに顔を出している仲間もいれば、舞台に出ている仲間も、タレントマネージャも、著名な作家のお孫さんや、お嬢様、警視庁関係から、介護、観光業、出版社から音楽界から実業界まで、ある時期には、バーのママさんまで実に多士済々である。隔月で集まっていたのだが、皆多忙になり、それ以来、3ヶ月から、半年、そして、忘年会と、会う回数が減ってきた。勿論、それぞれが歳を増し、体力が衰えながらも、それぞれの得意分野で活躍していることは、言うまでもない。
そのなかで1人の仲間が、九州から上京してくるという時に、数人が集まる。あるとき、六本木の中華飯店で会うことになった。僕にとっては、醤油や塩で多くを調理する中華料理は、塩分制限を医者から受けている者にとって、目の毒、口の毒になるものが多い。その幹事役だった組長から、黙って座ってなさいと言われるほどに、口にするものはと言えば、アルコールであった。空腹で、したたか酔った勢いもあり、カラオケに繰り出した。女優は、妹の歌だからと1曲だけ歌った。某国の大使を歴任した仲間は、きれいな英語で何曲も歌った。そこで、九州からの男性の美声を聴くことになった。九州でも指折りの企業家である彼は、歌い出すと、少年のような柔和な笑顔になる。
当然だが、盛り上がった夜になった。ピアノを聴きにいかんかね、某国の元大使は、ピアニストの名前を口にした。「有家」。なんと、そのピアニストは、我々の大学の後輩であり、昔、狸穴の「ガスライト」でピアノを叩いて、後に「ライムライト」という店を青学の裏に持った男である。共通
の知り合いが繋がったと驚いた。連れだって、二次会、いや三次会目のバーに行く頃には、九州人は翌朝が早いということもあって、女優共々別
れた。我々二人は、そのピアニストとの再会も喜ぶ余り、彼のピアノで明け方まで歌っていた。
その九州の男性T氏が、再び上京したという電話が入った。新橋にすぐ来れないかと、組長からだった。T氏は、多忙である。永田町の議員に会いに来たと。12月7日は、空いていないかな、彼は僕の手帳を開かせた。幸い?にも、その日は空けられる日だった。
「この日、島原で講演してよ」。いきなりだった。組長は、断るな!という目で睨む。解りましたと返事をするや、すぐさまT氏は、島原に電話をしていた。社団法人・島原法人会にであった。
数分後、迎車が来たのでと、T氏は、珈琲カップを置いて慌ただしく去った。
しばらくして、自宅に「経済講演会」、共催島原関税会、後援、島原商工会議所、雲仙市商工会という立派なチラシが送られてきた。それから一月後、僕は長崎空港に降り立った。
途中、雲海から覗く富士の姿を上空から間近に見ることができた。長崎に近づくと、眼下の海面
は凪状態だった。縮み模様の、いわゆる“キャット・パウ”(猫の忍び足)という言われる状態であった。ぽつんぽつんと浮かぶいくつかの島を眺めていると、ジオラマの模型のようで、ひとつくらいつまみたくなる。太陽光を熱源にして、BS、そしてネット通
信が出来れば、さだまさしが島を買ったという気持ちも解る気がした。
長崎空港は晴れ渡っていた。ここに降りたのは、30年勤続の報奨金を会社から貰ったとして、ハウステンボスに妻と旅行した時以来だ。13年ほど昔になる。この時は、空港から船に乗った。今日はここから、迎えの車で島原まで走ることになった。窓の外に、「たらみ」の流通
センターが迫ってきた。随分昔、当時の西浦社長に、あの果実のマークを提案した。Jリーグのユニフォームに、ロゴが揺れているのを見たときは嬉しかった。今では、100億企業になって、我々の知っている社長の名前は消えている。
途中、広域農道というグリーンロードを走った。赤い独特の土からは、馬鈴薯が収穫されていた。しばらく走ると、メロンやイチゴの絵が道路脇に立てられ、そこが果
物の国であることを物語っている。
橘湾を走った。湾に突き出るように建てられたホテル然と見られる建物があった。訊くと、歯科医院だという。歯の治療を終えるため、泊まり込んで一度の来院で済ませるというシステムが受けたようだ。遙々ここまでやって来て笑顔で戻ったタレントの気持ちも解る。確かに、何回も何回も通
い続ける、あの歯科医の治療法はなんとかならないものか。そういえば、JAAの仕事をしていた時、台湾へ歯の治療ツアーについて何度も訊かれたことを思い出す。
天気がいいのでと、仁田峠を経由して、有料道路の途中にある展望台から、あの普賢岳の荒々しい山容を間近にみた。眼下には
火砕流で被害にあったという島原市水無川に真新しく架けられたブルーの鉄橋や、遥か天草を見下ろした。標高は1,080mだそうだ。普賢岳のその横顔には、溶岩ドームが崩れ落ちた痕跡が、他の山肌とは異なった色合いで、火傷の跡のように、まだ残る。土砂流出量
の抑止のため、そこには、ヘリコプターによる種子の散布が当時繰り返されていて、徐々に緑の回復が見られる。
普賢岳から島原の市内に落ちる火砕流は、眉山の背中を左右に分けたことが良く判る。198年ぶりの噴火だった。話によると、最初は山火事のような噂だったという。いまも見上げると、微かに白い煙がたなびいているのが判る。平成新山の現在の標高は1482.7mとなっている。雲仙岳としては以前の最高峰であった1359mの普賢岳を抜いて、
雲仙岳の最高峰になっている。
循環道路を回ると、ゴルフ場が見えてきた。すっかり緑を失い、ベージュ色になったフェアウエイだが、ゴルファーの姿は、どのコースにも見えない。時刻は、15時半。普通
なら、色とりどりの服装が点在しているはずなのだが、と訊ねると、一昨日までは寒かったし、ここは冬にやれるところではないのですよと笑う。その割りには、駐車している車が何台もあった。全く以て、贅沢なコースである。訊けば、つい数年前までは県が運営するゴルフ場だったという。神戸ゴルフクラブの次に出来た、日本で最古のパブリックコースというのが、自慢だそうだ。雲仙国立公園での中心的施設で、温泉街から車で走れば3分の近さ。手作りのためフェアウェイは、微妙な起伏があるという。僕のサンコー72と同じか。ここでは、グリーンホールを2つ持つ9ホールを2度プレイして、ワンラウンドとなる設計で、別
に本格的なショートコースもあるそうだ。初の国立公園として指定されたのは、瀬戸内海、雲仙、霧島の3箇所だが、外貨獲得のため観光地整備の政策から、今でもその名残で、歴史的な建築物となっている雲仙、上高地、赤倉、蒲郡、日光などには、国際観光ホテルが建っている。赤倉の赤いとんがり帽子の屋根などは、赤倉のシンボルだ。中学の時、スキーでかじかんだ手を外人の立っている隙間を縫って、恐る恐る煖炉にあたりに入ったことを憶えている。
雲仙の温泉街で吹き上がっている白い湯気を目にした。その先に、「雲仙ビードロ美術館」があった。ビードロとは、ポルトガル語でガラスを意味するヴィドロで、明治時代まで、ガラスをこう呼んできた。イギリスから加工技術が入ってきてから、グラス、つまり、硝子という言葉になった。ここには、T氏によるボヘミアン・ゴブレットなど多くのコレクションがあった。長崎が、西洋文明の入口だったことを再認識する。
そういえば、龍馬とカステラを組み合わせた広告が空港にあったことを思い出した。長崎で組織した「海援隊」の日誌に、カステラのレシピが書いてあったそうだ。芥川龍之介は、カステラ一斤をパンのように手でちぎって食べたというではないか。スペインに古くから栄えたカスティラという王国の「パン」として、長崎に紹介されたと言う説もあるのだから、それも納得。鹿児島からパリ万博に出航していった薩摩藩士を乗せたのも、長崎のグラバーだった。異国文化の入口を知れば知るほど、そこにグラバーがいる。
美術館ではあるが、ここには、島原鉄道の敷設された当時の貴重な写
真があった。熱海の鉄道敷設も層だが、海岸線のトンネルを掘るセピアカラーの写
真から、日本の動脈を創ろうとした活力を感じる。
車は、国立公園を麓に向かって下りはじめた。橘湾を見下ろす場所に、大きな石の彫刻を据える作業が進んでいた。T氏のアイディアだった。イタリア人、ジャンドメンコ・サンドクの手になる作品、『フェニーチェ(火の鳥)』である。戦後50年をくぐり抜けた長崎に「復活と再生」のシンボルとして、羽と尾を形取った火の鳥を安置しようとするものである。置いて位
置からすると、火の鳥の背中は、きっと夕陽で光る海面となることだろう。
ようやくにして小浜に着いた。海岸線に温泉宿が建ち並んで、白い湯気が至る所から立ち上っている。夕食の前に、温泉に浸かりましょうと誘われた。6階の露天風呂だった。遮るものがないそこは、漁り火が揺れる静かな海がどこまでも広がっていた。
18時になった。小高い丘の奥にある法人会の会長宅に招かれた。島原鉄道の社長や、ケーブルテレビの役員など、蒼々たる方々が、大きな卓に集まった。今夜は、5kgの鯛が2尾釣り上げられたという。
「さあ、酒をやりながら、鯛しゃぶを楽しんでください」。東京では、とても口に出来ない、厚い切り身の鯛が、大皿に盛られてきた。塩分制限のある身だということを案じてくださった会長の心遣いに心から感謝した。ビールから、日本酒、焼酎と、九州男児は、酒量
が進む。夜が更ける。明日は雨だと誰かが心配してくれた。なぜならば、講演会の出足が鈍るかもしれないからだという。
朝は、昨日の天気が信じられないくらいに、雨が降っていた。地元の人に言わせると、昨日ほど、普賢岳がくっきり見られた日はそうないのですよと、送り出された。講演会は、13時30分からだ。午前中は、「みずなし本陣ふかえ」に出向いた。ここは、日本最大規模の道の駅なのだ。
1990年(平成2年)11月17日、普賢岳の山頂から噴煙がたなびいた。198年ぶりに噴火した火山災害の幕開けだった。溶岩ドームが崩れ落ち、火砕流となり、日が経つと、激しい土石流がみずなし川を伝って下流の深江町住宅は壊滅状態になった。3m弱の土砂に埋まったこの地域が、広大な道の駅に生まれ変わったというわけである。被災家屋をそのまま保存した公園があった。火砕流の落下する震動を映像と共に体感させられた。土石流が数分の間に、1階家を倒し、流し、埋めていく様を観ている内に、胸にこみ上げてくるものがあった。1959年9月28日深夜、伊勢湾台風で運河が決壊した我が家から、家族が濁流に流されていったという姿がその映像に重なってきたからだった。気を取り直して、深江町の蕎麦を食べた。
続いて、平成町に出来た雲仙岳災害記念館・がまだすドームに入った。ここでは、時速100kmで流れてきた火の玉
、火砕流を目で追った。そして、14mのドームスクリーンで床が揺れ、熱風が吹き出る平成大噴火の疑似体験をすることになった。最近になって掘り起こされたという、焼け溶けた報道局のビデオカメラを見た。あいにくの雨だったので、駐車場と館内への連絡路に天蓋がない不備な建築設計に腹が立ったが、見上げると普賢岳が霞んでいた。
13時30分からのホテル会場に急いだ。演題は「広告戦略で、企業が変わった」。ピンマイクをつけて、白板を前にして、広いホールで始まった。時間は、案の定と言おうか、申し訳なくも、30分をオーバーした。静聴してくださった参加者には、お詫びしたが、然し、なぜか、爽快感があった。この構成を創り、94枚のカードを書き込んだ内容をほぼ話しきったからである。リポビタン・ゴールドを飲み、エスタロンモカで眠気を覚ました成果
であろうか。
話し終わって、再び宿に戻って露天風呂に身を沈めた。体を芯から温めて、長崎空港に向かった。SNA(スカイネットアジア航空)の最終便である。胃のような形をした島原半島を後にした。九州のボスと言っても過言ではない、精力的な企業家T氏は、明日から札幌だと聞いた。南の島から、北の札幌に飛ぶ。因みに、羽田まで空の時間が90分。小浜から長崎空港までの地上時間距離が80分だった。
産業再生機構の支援下で再建を進めているSNAは、05年8月に長崎線を飛ばし、3路線となって以来、初の就航率100%を達成した。搭乗率も74.3%で、11月時点では過去最高となった。ANA共同乗り入れだが、シニアネット割引で取ったSNAのチケットは、ANAよりも安かった。
折しも、この日の毎日新聞夕刊は、『中部近畿直下地震、広範囲で震度6以上、中央防災会議調査会が推計、大阪湾5m津波も』と、報じた。
M7以上の地震を起こすことが予想される活断層39本などが対象となった予測だった。調査会は、今世紀前半にも、中部・近畿圏を含む広い範囲で地震活動が過発化する活動期に入ったと考え、内陸で発生する大規模な地震に備える必要があると呼びかけていた。
日本には八十四の活火山がある。火山国、日本は何処で爆発が起きても不思議ではない。一方、僕は、島原の経営者たちの心を揺らすことが出来たのだろうか。
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