毎朝、視界の中に最初に入ってくるのは、白い帽子をのせた笑顔だった。
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疲れているはずの徹夜明けした看護婦さんに起こされてきた。
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しかし、1週間が過ぎたころから、次第に朝の目覚めが早くなってきた。
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今日も5時半であった。腕時計を疑う。が、眠くない。
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朝の尿意が、目覚まし代りでははあるが、
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体内時間というものが、規則正しい患者の生活に与えられてきたからだ。
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朝の清々しさというものを久しぶりに味わった。
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熱海で生活していた時から、しばらくは忘れていたことになる。
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すこぶる単純な時間をもう何日か過ごしている。
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毎日が単純だと、単純ではないものに敏感になる。
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病室に様子を見に来てくれる甲斐甲斐しい看護婦さんの表情だ。
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ナースという単語は、スチュワーデスとか、エアホステスとかいう響きと
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おなじカタカナでは言い得ないものがある。
「さん」をつけたくなる。
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ホスピタリティがあるからだ。
体温を含んだ「看護婦さん」。
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照れ臭いが、そう呼びたくなるのである。
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横たわっていると、その心遣いをひしひしと感じるのである。
病室を2回変わった。
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7人の患者が退院したりで入れ替わった。看護婦さんの患者に対する言葉遣いに感動すらさせられる。
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それがなにかということに気づいた。
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自分たちが常日ごろ話している言葉のテンポと違うことだ。
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ナースセンターで話している会話とは違っているのだ。
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病室に入るところから、深呼吸でもしているのだろうか、患者への話し方に、
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ゆっくりとした流れが出てくるからだ。
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ベッドの横たわっている人間は、当然であるが健康体ではない。
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その患者の眼は、常に人を仰ぎ見る形になる。
反対に患者を見る者は、常に見下ろすことになる。
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こころ穏やかでない者には、威圧感を与える。
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だからこそ、穏やかに話してくれるのだ、ゆっくりと。
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母のかいなに抱かれているような子守歌のテンポである。
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患者は彼女たちにとって、その殆どが父親以上の年齢である。
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同じ看護婦さんでも、患者への語り方の内容もそれぞれ全く異なっている。
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中には、また戻ってきた患者に、前の話の続きをし始めている。
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嬉しいようで悲しい複雑な気分にさせられるが、
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患者は母に会えたような柔和なほほ笑みを返している。
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それにしても随分我々は、早口になったものだ。
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パーソナリティを重要視し始めたラジオの番組が、テンポを早めたという者もいるが、
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おそらくこれは、日本のCMの影響ではないかと思う。
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番組CMである60秒や30秒の時代には、まだそうでもなかったが、
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15秒のスポットCMが主流になったことで、
限られた時間の中、出来るだけ多くを詰め込むあまり、
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声高にもなり、早口にもなった。
言葉足らずで、短絡な文脈が日本を覆ったことだ。
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以心伝心と言う国、俳句の世界ではあるが、
それは、互いに価値観が同じときには、
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確かに省略の会話が成り立つ。 しかし熾烈な市場の戦いの場で、
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エンドユーザーの生活感よりも、
広告主側の自社の商品名を覚え込ませようとする
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コミュニケーションには、 なりふり構わない言葉の応酬が行き交うようになった。
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言葉が、銃弾となった。ナレータの声が少なくなり、
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TVのバラエティ・タレントの嬌声がTVに眼を振り向かせる。
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コマーシャルソングのメロディよりも、シンセサイザーの電気的リズムがCMの裏を囃し立てる。
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ブツ切れの音楽が何時間も耳に残る。
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黒柳徹子、久米宏、古舘伊知郎の切れの良い早口が、CMの世界ではもう当たり前になっている。
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耳が追いつかないほどの、聞き違えるほどの早さでCMに差し込まれている。
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これで、情報量が果たして増えたのだろうかと考えると、
どうも語るに落ちるのだ。
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「狭い日本、そんなに急いで何処ゆく?」。
この交通安全のスローガンが、
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人間と人間のコミュニケーションに問い掛けてくる。
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「朝までテレビ」のディベイト?でも、人を説得する力を感じさせない。
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殴り倒すような機関銃の話し方が、さも優位
に展開しているような錯覚をさせている。
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勿論、仕掛け人が役割分担をさせてはいるのだろうが、
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口にしたほうが勝ち、と言わんばかりである。親子の間ではどうだろうか。
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生徒と生徒の間ではどうだろうか。
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こういう自分も、ゆっくりとした会話を忘れていたことに気づかされた。
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NHKの宇田川絹江さんがマイクに乗せるゆっくりとした話し方、
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「ラジオ深夜便」がいかに、高齢者の気持ちを落ち着かせるかが理解できる。
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看護する彼女達は、ゆっくり話す呼吸に加え、語りかける中身が家族の一員のような同化力をもつ。
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まだあどけない顔の女子高生がTVのマイクに向かって「看護婦になりたいです」と答えるとき、
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「病に倒れて帰らぬ人となったおばあちゃんを見守ったから」という姿をよく見る。
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だから、最愛の人を失った気持ちが看護婦を志望してくれたに違いない、
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といつしか思うようになった。 哀願の視線を毎晩刺されているのだろう。
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すがるような眼をずっと見続けてきた人たちである。
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診察や回診では見せない患者の顔を知っているのだ。
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データでは読みとれない現場の個々の情報を知っているのだ。
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インターンを引き連れた回診時の医師の冷たいとも思える、
事務的な話しぶりは、
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工場視察の団体のようで、 患者が安心できる言葉よりも、
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医師の軍団の統率連帯感を確認しているように見えてしまう。
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例えれば、取り締まり役が会議に入った時の、
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報告の上手さ下手さを考査されているような光景である。
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担当クランケの検査項目の増減が、週販量
や、ROE(=税引利益/株主資本)を
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報告しているように聞こえる。マーケティングの世界にある
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「逆さまのピラミッド」(米国の経営コンサルタント、カール・アルブレヒト)が、
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病院経営には無いのだろうな、そう思い始めた。
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マーケティングの考えが遅れているのが、大学と病院だといわれ続けてきた。
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大学と病院はいわば不安マーケット。これまで売り手市場という意識が高かった。
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入れてやる、卒業させてやる、治療してやる、病人は黙っていろ。
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これまで学生も親も病人も家族も弱みを持ったという「不安」マーケットであった。
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それが、少子化時代を迎えた。定員割れの大学が出てきた。
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就職難でダブルスクールの時代になった。インフォームド・コンセントの時代に入った。
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カルテ開示を請求できるようになった。
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どちらもソフトサービスのビジネスであるという認識がまだ低い。
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「逆さまのピラミッド」の思考がまだまだ不足しているのではないか。
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言い換えれば、「逆さまのピラミッド」が言うところの、
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(経営者や管理職層ではなく)現場で接する従業員こそが、
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エンドユーザーの要望と変化の重要な情報をストックしているということだ。
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大学経営者にはゼミ教員であり、高校教師には出身学生であり、病院で言えば看護婦さんである。
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病気をすると、どの看護婦さんもきれいな人ばかりだ。
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言葉遣いがどれほど人を美しくしているか、ここにいるとよく解る。
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家族と離れていることを、ことさら感じる夜から朝にかけての時間に、
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ベッド脇のコールボタンを押し続けているのであろう。
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それを待てずに体の不調を訴える声が病室から聞こえてくる。
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毎朝、毎晩、廊下を伝わって聞こえてくる。
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用を足して帰るときに見ると、時計は22時になったばかりである。
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消灯が21時のため、困ったことが起きていた。
毎晩見てきたニュースステーションが見られない。
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秘かに見ようとイヤホーンをしても、
ブラウン管から出る光の動きは止められない。
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新聞紙でTVを囲ってみても、 稲光のようにカーテンの向こうに跳ね返っていた。
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諦めて眠ることにした頃から、そういえば朝の目覚めが早くなった。
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窓の外が外苑の緑の森とは言え、
星こそ、見る機会を失っていたが、
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夜は、やはり、 自分にとっては、悲しいかな、星ではなかった。
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8階のエレベーターホールから見る、新宿のスカイスクレーパーだ。
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ミニ・エンパイヤステイトビルディングの新宿ドコモビル、東京ガス、都庁、
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外資系のホテル群などなど、虎之門の森ビル群や、丸の内三菱ビル群とは異なる、
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マンハッタンを思わせる風景がここから眺められる。
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この高さの空間に、大人のバーカウンターを置けば、
札幌の「 N43(*)」に勝てるな、と
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不謹慎なことを考えた。
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今夜は、久しぶりに都会を癒す雨が降った。
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(*)N43…札幌市中央区伏見に「N43」という名前のレストラン&バーがあります。
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札幌の緯度北緯43度にちなんだ名前です。市内を見下ろす山の中腹の地崎バラ園の前にあります。
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札幌市内からタクシーで15分ほど、札幌の夜景を楽しむには最高のスポットです。
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営業時間は5時から深夜2時まで、年中無休だそうです。電話:011−551−0043
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