もくじ

060405
横浜ロイヤルパークホテル

060406
横浜出航

060407
神戸

060408
大隅諸島

060409
バーシー海峡


060410
ルソン海峡


060411
南シナ海

060412
南シナ海2

060413
シンガポール入港

060414
シンガポール2

060415
アチェ・スリランカ西沖


 昨夜と打って変わって快晴となった。日本丸メモリアルパークの桜の花びらが舞っている。
  次男、州の嫁、真紀子から妻に電話が入った。夫婦で見送りに来ると言っていたのだが、州の顔色が悪いという。州からも僕に電話してきた。声に力がなかった。おそらく、徹夜明けに違いない。電話を貰っただけで十分だから、体を休めろと言い置いた。ここ数日間の業務メールを読んでいると、過労心労が重なっていることは判っていた。通信業界のベンチャーは、スピードと情報量が交差して、マスコミの世界以上だ。次男が自分で起こしたこのネット通信の世界に、僕はからきし弱い。それまでは、ワープロを5台乗り換えたが、息子たちに尻を叩かれ煽られて、パソコンを打ち出したのは、55歳の時である。それからパソコンは、マックが4台目。このクルーズ2ヶ月前にマックがご臨終になり、シンクパッドのウインドウズに乗り換えたのだが、ネット業界でのBtoBの技術展開にアドバイス出来るはずもない。体第一にしてもらうほかないからだ。また、真紀子には、玄関に出した80冊ほどの不要本を、ブックオフへ売ってしまってくれないかと頼んだ。

  休日になっているマネージャーに宜しくとお礼を述べて、チェックアウトした。花籠はそのまま船室に飾るのだと、妻は手持ちにした。ホテルから、ゆたか倶楽部差し向けのタクシーで横浜大桟橋に向かう。ターミナルの中は、異様な空気が流れていた。一昨日が飛鳥U、昨日がピースボート。そして、今日がにっぽん丸。三日連続で世界一周クルーズ客船が続くからだろうか。08年はもっとこの空気が変わるだろう。ぱしふぃっくびーなすが加わって、日本人のクルーズ熱が高まるからだ。
  このターミナルに入る気分は、やはり違う。エアポートターミナルでの、あのわさわさした空気と似ていて、日本を離れる独特のものがある。離発着のインフォメーションボードの回転する動きもない。きーんと言うジェット機のターボ・エンジンの音もない。静かである。しかし、音はないが、緊張感がいい。空へ海へ、人間が大地から足が離れるときは、何か不思議な気持ちが沸いてくるものなのだろう。
  乗船しようとイミグレの通路に入ろうとした時、いきなりマイクが妻に差し出した。マイクのロゴを見ると、NHKのTVクルーだった。
  「世界一周で何を楽しみますか?」
  「…ただただ、毎日、海を見て、本を読んで過ごせるのが楽しみです」
  それじゃあ、ニュースのコメントとしてピックアップしにくいよ、と横から僕が囁く。妻は、それ以上言わなかった。他の人にもマイクは差し向けられた。咄嗟のことで、巧く応えられなかったという人が多かった。

  イミグレを通過すると、その向こうに、懐かしいクルーズスタッフが並んで迎えてくれた。ギャングウエイを渡ると、船内からも「お帰りなさい」の声がかった。なるほど、リピーターの気分というのは、こういうものかと少しいい気持ちにさせられた。

  2階のインフォメーションデスクでキーを受け取った。341号室は、エレベータの入り口から、自販機側に入った最初の部屋だった。ここが、これから3ヶ月を過ごす我が家である。見慣れた部屋である。変わったのは、トイレがウオシュレット型になったことだ。『このお部屋は、RONALD,EONA,ELMERが担当します』TVの横に、ハウスキーピングの担当スタッフ名の書かれたカードが立っていた。

  既に、宅急便の段ボール箱が、狭い部屋の中に積み上げられている。早く開ける箱と、後でもいい箱とを区分けし始めた。今晩は、この荷物がコンパクトな設計の部屋の何処かに、見事に吸収されていくのだ。妻は、どのロッカーには何を、どの引き出しには何を、が決まっているのだ。

  そこへ携帯電話が鳴った。思いがけない声だった。カーニバルの長谷川社長が見送りに来てくれたのだ。オーストラリアに家族同士で旅行したり、バンコックに共通の友人がいてゴルフをしてきた、長い付き合いのCM制作会社の社長である。渡したいものがあるという。イミグレまで降りたが、案の定、こちら側は既に国外に出た者である。直接会うことはできない。僕の様子を察した川野チーフパーサーが素早く駆け寄ってきてくれた。間に入って受け取って来てくれた。選別の封筒だった。直接手渡されたのなら、戻していた。恐縮してしまう。すぐさま、デッキに出て姿を探す。船のプロムナードデッキは、人人人で手すりにも近づけない。群れから離れる方が、ターミナルからも見つけやすいだろうと、後部デッキに向かった。彼も、また同じ考えからであろう、見つかりやすいように、赤い制服のマーチングバンド席の真後ろにいた。顔を見ながら、携帯で話しあった。
  テープが投げ込まれたり、投げたりし始めた。再び携帯が鳴った。中学からの仲間、池田晃一からメールが入った。タイトルは、「訃報」だった。開くと、後上昌弘が急死したという。目を疑った。3月24日に、上野の夜桜見物をと、鴎外荘での食事会をしたばかりである。東京にいる名古屋学院時代の勉強仲間で、「な(名古屋)と(東京)会」と名付けた集まりをしている。後上が幹事をした夏の会を受けて、クボタの副社長、西野が冬を、僕が春の会をしたばかりである。それも、クルーズに出る都合から、1ヶ月早めて集まったのだ。2週間も経っていない。奴からは、まったく病気話など出なかった。血色も悪くなかった。封印していたゴルフを、そろそろやろうかと自分で言い出したくらいだ。信じられない。「出航する時間だ。供花を宜しく頼む」と返信した。幹事の自分が、クルーズに出なければ、予定は4月の1週目に集まることになっていた。つまりは、早めたことで、元気な後上に会えたのだ…。なんてことだ!66歳!
  プロムナードデッキでは、シャンパンが配られ、ターミナルデッキでは、「錨を上げて」を消防音楽隊が演奏している。華やいだセレモニーの喧噪感の中で、メールに目を閉じている自分が複雑で堪らなかった。こういうサプライズは、起きてほしくなかった。

  大学のサークルの同級生、丸山悦子から留守伝言あり。ブラスバンドが座る赤いシートの横に来ているとのこと。青学時代の友人だという女性と一緒に来ていた。読ませたい本を持ってきたと携帯電話でいう。申し訳ないが、再度イミグレに降りて、再びクルーの手を煩わせるわけにはいかなかった。気持ちだけ貰った。いかなる本かは、聞き損なった。大きく手を振っている男性がいる。デッキゴルフの船友、小林さんが見送りに来てくれていた。3年前、セントアンドリュースを回った仲でもある。ゴルフ焼けか真っ黒だった。
  「にっぽん丸」の専属バンド、4(フォー)ドルフィンズが「80日間世界一 周」を演奏し始めた。
  若い男女がターミナルのウッドデッキに走り込んでくる。見ると、鵜篭と青嶋のカップルだった。ぎりぎり間に合ったのだ。映像アカデミアの教え子だ。互いに携帯で会話した。鵜篭は外食産業に、青嶋はネット企業に一応内定をもらったと報告された。よかった。明大生と津田塾生だ。2グループに分けた卒業制作では、どちらもプロデューサーの役を見事に果たしてくれた。

 銅鑼が鳴って、風船が空に放たれ、テープが引きちぎられて、船が桟橋を離れた。「輪になって踊ろう」の曲に合わせて船客が踊る、にっぽん丸独特のボン(ボンボヤージの略)・ダンスが止まない。惜別の感が一気に高まった。
  ターミナルの人の姿がぼやけてきた。レインボーブリッジをくぐり抜けた頃、虚脱感を持った船客たちが昼食に瑞穂に集まってきた。

  菅井さんと一緒のテーブルを平マネージャーにお願いした。座ると、そこへ東夫妻も同じ席にと案内されてきた。期せずして、気の置けない同士になった。しばらくして、妻の横に突然顔を隠しながらしゃがんだ女性がいた。なんと、佐賀の和田さんだった。3年前に、「ココ乗り」という、区間乗船で、アムステルダムからニュー・オーリンズまで乗った、佐賀のミセスである。彼女もセントアンドリュースを回った仲である。ゆたか倶楽部に誘った途端に、国内外のクルーズに頻繁に乗っている。今度は、世界一周をしなさいよと勧めていたのだが、満室で乗れなかったとうそぶいていたのだ。それにしても、佐賀からならば、神戸港で乗船すると思うのだが、横浜から乗り込んだのだ。「サプライズを狙っていたのよ!驚いたでしょう!」サプライズだらけの二日間だ。

  食後、クローゼットに収納する作業が始まった。ところが、紀伊水道での揺れを想定して酔い止めの錠剤を飲んだせいで、眠気が襲い、横になった。
  目覚めが悪く、夕食に出るのが億劫になった。遅れて19時30分に瑞穂に入った。昼食と同じく、センターテーブルに案内された。今晩ご一緒するご夫妻は、リタイアーしたから乗ったのですと話しだした。しばらくは、出身やら、生活場所やら、初めてか、何度もかと、質問が始まる。毎食である。トランプゲームの神経衰弱か、巡査の職務質問のような毎日が続くのだ。名前を名乗らなければ、それは互いに一定距離を保ちましょうという、暗黙の合図である。最初の今夜のご夫妻は、仙台市和泉の高橋ご夫妻だという。これで一気に話がしやすくなった。仙台での仕事は、かれこれ16年に亘るからだ。仙台味噌から始まって、東北電力、エスパル等々、何度も出張を重ねている。高橋さんは、これまでに、夏の阿波踊りコースと、クリスマスの伊豆諸島コースを乗って、今回の世界一周クルーズになったという。阿波踊りクルーズでは一緒だったのかもしれない。
  渡辺登志さんが乗っていた。近づいてきて、こう言った。
  「久しぶり、元気だった?突然だけどね、あのね、乗客の取材をしたいという雑紙社の方が乗ってるの。で、航海記を出版した萩原さん夫妻が乗っているんだから、彼らに取材したらいいわよ。ただし、その本、ライブラリーにあるんだから、まずそれをお読みなさい、って言っておいたわよ。インダビューあったら、宜しくね」
  相変わらず、からっ、きりっとしている。姉御だ。「お一人ですか」妻が尋ねた。「神戸から、もう一人乗るわよ」妻は安心した顔になった。

  再び、片付けを始めた。荷物の整理をしないと、ベッドの上が空かない。ゆたか倶楽部からプレゼントされたビッグなスーツケースは、ベッドの下には入れられない。船側に預ける。
  船は、渥美半島を通過中だった。テレビの中は、昨夜雨天中止となっていた中日横浜戦だった。1点差、岩佐で逃げ切り勝った。妻は、二段ベッドを倒さないで、なんとか、収納する工夫をしていた。昨年より、衣料は少なくしたつもりだったが、相変わらず結構な量だった。
  今回は、ドレッサーは妻に座らせて、僕はソファーに通販で買った「どこでもテーブル」をPCテーブルとしてセットした。
  映像アカデミアの古田中氏から電話が来た。野崎先生と今期のカリキュラムを作成したから、メールを見てくれとのことだった。僕の講義は、後期9月からにずらして貰ったからだ。「いま、海の上、紀伊半島に差し掛かるところ」というと、出航日を帰港日の15日と勘違いしていたらしい。携帯電話が通じる海域では、PCのメールも繋げられる。了解しましたと、電話を切った。
  23時10分。本日は、これで、閉じる。


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