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早くに就寝したせいか、一度、夜中の3時に目が覚めた。懐かしい振動が船底から伝わってくる。いよいよ再び、この生活が始まったなあという思いだ。ナビが消えていたのでどこら辺りかは不明。懸念された低気圧の残りもなく、また揺れる常道の紀伊半島沖も難なく通
過したようだ。
セットしたアラームが鳴ったのは、6時だった。しかし、結局、八点鐘を聴いてから朝食に向かうことになった。
八点鐘のアナウンスが、船内に流れる。これは、毎朝8時に、操舵室にある八点鐘を鳴らし、船長から朝の挨拶があるのだ。停泊中、入出港作業中以外の航海日である。「先ほど、大阪湾に入りました。現在地は、淡路島と洲本の東沖4海里(7.5km)です。天気は晴れ。外気温は11℃、海水温度15.6度。風速は北東の風4m、波高さは0.3mです。神戸入港時間は予定通
り。ここで、110名のお客様をお迎えして、さらに大きなにっぽん丸家族となって、世界一周に船出します。本日の15時から17時までは操舵室をオープンいたします」
東夫妻も丁度、同じ遅組だった。これから毎日が撮影に明け暮れて大変だと思う。撮影時間に追われていく仕事だから、疲れを溜めないで充分な睡眠を取っていただきたいものだ。隣の席には、昨夜、驚かせられた和田希公子さんが着いた。彼女の言によれば、かなりの衣装を持ち込んだという。今度は、オール・ラウンドだから、四季折々のおしゃれを楽しまさせてもらおう。彼女が、いたづらっぽい目で首を突き出した。昨夜のテレ東のニュースにインタビューが流れたのよ、という。「世界一周は何回目ですか」の突然のマイクに、「10回目です」と答えてしまったと笑う。あの若さで10年前から世界一周を繰り返していたミセスなら、局側の編集者も取り上げたくなる。「いやあね、国内も含めて何回ですかと訊かれたんだと思ったのよお」。彼女は、舞い上がってしまったのだと照れた。3年間に10回乗り続けた、紛れもないにっぽん丸ファンである。ゆたか倶楽部に誘ってよかった。彼女のことを知らないスタッフは、いないほどである。
彼女は、妻のエッセイ講座の受講生にもなった。ゴルフからエッセイである。
そういう人ばかりではない。時にTVの報道は罪である。今回のクルーズに乗るために、ある専門職を廃業した方がいらっしゃるのだが、同じく横浜港でNHKのインタビューにカメラが顔を写
し出したばかりに、その理由が知人にばれてしまったという。こうした話は、横浜を発って、神戸に入港したとき、驚きの声が携帯電話に入ってくるのだ。長く日本を離れる世界一周の船客には、それぞれ3ヶ月の留守をどう言いつくろってきたかという話を聞く度に吹き出してしまうことがある。そうした、諸々の人間模様を乗せて、世界を回るのだ。これだけでも、人間ドラマが出来上がる。
朝食後、ベッドメイキングしてくれる間は、船客は何処かで時間を過ごす。僕は、久しぶりだからと、船内を回ってみることにした。7階のフィットネスコーナーに上がってみた。旧式のエアロバイク2台が無くなり、新型が3台、また前後に漕ぐ形のウオーカーが1台、そして嬉しいことに、アンケートで要望しておいたエアロウオーカー(コンビウエルネス・エアロウオーカー2100P)が2台も新設されていた。スペースはプールサイドではなく、コントラクト・ブリッジ教室に使われていたテーブル席と鉄アレイなどが置かれていた場所を巧くレイアウトし直してあった。以前は左舷側から海を眺めていたが、今度は真っ直ぐ舳先を眺められる。
神戸に入港した。以前、別件でこのポートピアにあるキメックセンターを下見したことがある。当時は未だ市民広場駅までしかポートアイランド線がなかった。その先に、突貫工事中の神戸空港があった。国内97番目の市営空港である。2月に開港した神戸空港からは、航空機の飛び立つ姿は見えなかった。
桟橋の垂れ幕は、1枚だけだったが、幅2mほどの布に書かれたゆたか倶楽部からの「ボンボヤージ」が目立った。見送りの人は、時間が経つにつれ、徐々に増えて180人ほどになった。間違いなく乗船してくる工藤さんの携帯電話は、一週間前と同様に、相変わらず、話し中だった。
携帯電話が通じる圏内で、訃報を打ってきた池田晃一とメール交信しておく。後上の死因を訊いた。脳梗塞だった。「なと会」から花を出すが、地元、名古屋の同窓会メンバーへも連絡したという。告別
式には瀬戸の足立、長江も駆けつけるとのこと。既に、船の上と言うことは、国外なのである。なにぶんにも宜しくと香典を頼んだ。………合掌。
3階のギャングウエイから乗船してくる客をしばらく見続けたが、高碕さんも工藤さんも現れなかった。デッキに出てみる。見送りの人の中に、背の高い中林夫妻が見えた。北海道にいるはずの門馬夫妻も手を振っている。あと、顔見知りのご夫妻が2組いた。神戸港でのセレモニーは、ブラスバンドの音ではなく、勇壮な和太鼓で送り出されることになった。その音が港内に響いた。いやがおうにも日本という国を離れようとする乗客の琴線を揺らす。
そんなことを考えていると、プロムナードデッキに本間栄子さんの姿を見つけた。本間さんが乗船することは他の人から聞き知っていたが、驚く顔が見たさに、我々からはお知らせしなかった。驚かれた。思わず互いに抱き合ってしまった。先週まで高血圧で悩まされていたとおっしゃる。工藤夫妻もデッキに現れた。携帯電話が通
じないわけを聞いた。あの電話は解約したという。だとすると、いつも話し中の音は何だろうか。乗船してきた人は、そのままプロムナードデッキに上がって来るのだろうか、今度は高碕夫妻にも会えた。舳先の先を見ると、僕はあっと声を出して、駆け寄っていた。松田夫妻も今回乗ってきていたのだ。これで、デッキゴルフ組は、4名が揃ったことになる。
商船三井客船の小旗が振られ、「いってきまあす!」の声が発せられた。風船が空に放たれた。これで、横浜の220人、神戸の110
人で330人が日本から日本への乗船客となった。19カ国、25港の30800海里(5700km)のスタートである。ゆっくりと、ポートピアを船は離れていく。これで、シンガポールまで船は南下する。
妻が見知らぬご夫妻に捕まっている。妻は喜んでいる。近づくと、僕にも挨拶された。「お顔を本で見ていましたので、声をかけさせていただきました」はっとした。3年前、自分が同じことをしたと思った。デジャブ。そうか、3年前、「夢航海」の著者である東さんに、説明会のテーブルで僕が声をかけた時と同じだ。そして、いま、東さんのように自分たちがなった。くすぐったい気持ちだった。木島さんと名乗られた。神戸からの乗船客である。
昼食では、再び、和田希公子さんのテーブルに誘導された。そして、東ご夫妻が後から座ることになった。早速、読者から声をかけられましたと、東さんに報告した。デッキから、昼食への繋がりが、不思議な流れだった。食後、東さんから、「記者魂」という聞き慣れない名前の焼酎をプレゼントされた。毎日新聞東京本社でしか手に入らないというから、知らないのが当たり前。しかし、貴重なお酒を頂いたことになった。サプライズの連続となった。
15時、マッサージの予約を入れる。先回の永山ゴッドハンズに代わるマッサージャーを試してみたいからだ。名前は坂倉さんと言った。明日からもう、工藤、高碕、松田の神戸組デッキゴルファーが誘いをかけて来ること、必定だからだ。30分では不十分かもしれないので、念入りに60分間をお願いした。板倉さんによると、永山君は名古屋に転勤してから新宿に移ったとのこと。板倉さんも、名古屋から戻ったばかりだという。グローバル・スポーツは、東京ビル時代の勤務時に八重洲支店に何度も通
ったリンパ系スポーツマッサージの全国チェーン組織である。今回のトリノオリンピックにも、ショートコースのスケーターに随行したらしい。これから、デッキゴルフが続くが、何回通
うことになるだろうか。節約のために、インドメタシン配合のクリームと、スプレイ缶
を何本も持ち込んである。
16時30分から、船内のフィットネス器具に関する説明会があった。トレーナーは女性の高橋さん。集まった中に、体格のいい男性がいた。本格的な登山家で、2kgのウエイトシューズを履いているという。今回は船に乗るために、革靴を買ったというくらいの山屋だった。老若男女がずいぶん集まった。およそ20人の人たちが、毎朝来るとしたら、先回のように悠々自適な時間を過ごすわけにはいかないようだ。妻は鉄アレイの教室の有無を質問した。下腹を引っ込ますためらしい。読書をするのもいいが、やはり何か運動をしたほうがいいと勧めた。
ライブラリーに下りて、自分の本があるかどうかを確かめた。「思い切って世界一周」あった。広報の松原さんのお陰で収まったのだ。戻って部屋の中の整理をしながら、時間を過ごした。
夕食に廊下へ出ると、背中で菅井夫妻の声がした。4人一緒のテーブルを平
マネージャーにお願いして、ボトルワインを頼む。美子さんがフランスへワー
ルドカップ観戦ツアーに行ったという。新潟市と姉妹都市だから、フランスに
行けたのだという。サッカーに熱を上げている話は一度も聞いたことがなかっ
た。やっぱり、「何で手を使わないの?」というほどに、サッカー音痴の美子さんが行ったのだから、その顛末話に笑い転げた。またまた偶然なことに、東さんがテーブルに加わった。ビールを頼んだ東さんが伝票にサインをしながら、ひらがなにした理由を話し始めた。中国人は漢字を模写
するのは巧いが、ひらがなは日本独自のものだから、筆圧が違うという。なるほど。青学の友人、佐々木治幸に創ってやったひらがなのサインは、我ながら当を得ていたのだ。丁度持ち合わせていた自分のクレジットカードの裏を見てもらった。行書の漢字を更に裏返したのが自分のサインだからだ。
話は、東さんが南アフリカで秘密警察に拘束された顛末を話し始めた。ここでは書き記さないが、報道カメラマンの面
目躍如たる行動力だった。
食事を終えてロビーで、渡辺さんに会った。「神戸から額田さんは?」に「彼は、先回、下船して3ヶ月後に亡くなったの。白血病だったのよ」に唖然。あの紳士の額田さんが外見からはそんな体調には見えなかった。先回乗船したとき、「僕は実は癌なのよ。でも楽しみがダンスなので・・」と言われた某ご婦人は、3年後の今回も元気に乗ってこられた。人の命は、はかないものだ。「体が動いて、目が見えて歩ける内に、世界一周しようと思わないと、後で航海しますからね」誰かが3年前そう言った。どうにかこうにか、歩けて見られる体を維持しているから、今回も乗れたのだと、自分に言い聞かせた。そして、同じ66歳で逝った後上の急死を思った。額田さんと後上に、合掌。
夕食後のドルフィンホールは、クルーズスタッフと講師の面々を紹介する日だった。パソコン、俳句、麻雀、ダンスの各講師は、前回とは入れ替わっていた。最後に東さんがカメラを2台首に掛けて挨拶をした。乗客が退屈しないように組み立てられた講習、講義、教室が明日から毎日ひっきりなしにスタートする。時間をやりくりしてでも、全部出たいという、好奇心旺盛なご婦人もいらした。100日間続けたら、覚えられるでしょうと、両手を拡げてダンスのマネをする方も。僕はデッキゴルフ以外には、続けるものを決めないでおこう。暑いスエズを通
過するまでは、体力温存に限る。
四国沖から船が離れると、しばらくauの携帯電話が圏外となる。次男の体調を確かめておきたいので、州と真紀子に同送メールを送った。九州に近づいたとき、真紀子からの電話が鳴った。体調は良くなったが、ビジネスの上で、技術者とデッドロックに乗り上げたらしい。携帯電話のアンテナは、3本から2本と、不安定になってきた。詳細を聞くことも難しそうだ。
「グローバル・ボーダフォンの番号にメール送信しておいてくれれば、次の寄港地シンガポールで読む」とauから打つ。
23時40分、長男にもメールを送信してみる。進路は、宮崎に向かっているものの、陸地との距離が離れているために、「圏外」が続く。それは、午前2時まで試みたが、駄
目だった。一抹の不安を乗せて、船は九州を離れようとしている。 |