最終更新日2008.1.29(火)
2008年1月25日(金)より、こちらのコーナーはブログになりました!
続きはココログ「萩原高、二度目の世界一周クルーズ日誌」をご覧下さい。
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2006年4/6から7/15の間、にっぽん丸の2006年世界一周クルーズお出掛けになったときの、世界一周クルーズ日誌です。(萩原高の部屋:管理者より)


↑航路図をクリックすると、別ウィンドウで拡大してみることができます。

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もくじ

060405
横浜ロイヤルパークホテル

060406
横浜出航

060407
神戸

060408
大隅諸島

060409
バーシー海峡


060410
ルソン海峡


060411
南シナ海

060412
南シナ海2

060413
シンガポール入港

060414
シンガポール2

060415
アチェ・スリランカ西沖

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萩原高、二度目の世界一周クルーズ日誌


 いよいよ二回目の世界一周クルーズに出掛けるのだ。新たな緊張感がある。
 3年前の時は、「思い切って」という気持ちと、最後の旅となるという想いから、二ヶ月前からあれこれと準備をしていたのだが、今回は違う。同じ3ヶ月の旅だというのに、どういうわけだか、直前まで他のことに追われていた。
  僕の書斎を長男の出た部屋に移ってくれと妻に言われ、うっかりと承諾してしまった。大移動の大整理を余儀なくさせられることになった。僕が、書斎に山積させていた雑誌や新聞、また資料などを詰め込んだ段ボール箱を片付けないものだから、業を煮やした妻が謀ったのだ。陰謀である。つまり、それが片付かない限り、旅行の準備が出来ないことになった。このため、2週間がこれに費やされた。こう書くといとも楽のように思えるのだが、入社して以来の企画コンテやロケ写真、また大学での講義資料から、名古屋転勤時代の書類などなど、定年という長い時間が詰まった自分には貴重な代物を捨てきれない性分だから困った。来る日も来る日も、数十年前の想い出の中に浸りながらの片付けである。片付けをしながら、頭の中には、アントワープだ、ニューヨークだとか、モルジブはどんなところだろうかなど、考えてしまうので、頭の中は過去とこれから先の旅先とが絡んでいた。そうなると、余計に撮影のために一カ月近く滞在したサンフランシスコやニューヨークなどが、いまどう変わってしまっただろうかと、複雑な期待が入り交じる。どうやらこうやら、徹夜を含め、空き部屋となっていた長男の部屋に机を押し込み、書籍を運び終わってからの旅支度となった。従って、クルーズのための準備としては、実質2週間あっただろうかという短さだった。
  ゆたか倶楽部からプレゼントされた大きなスーツケースをふたつ拡げ、他に段ボールを箱に造り、そこへ投げ入れるように仕分けていった。3年前には、なんとかナイトと銘打ったイベントが、事前に教えられていなかったことを、拙作の文中で指摘した。今回は、フォーマル、インフォーマルの回数と予定日までもが事前に伝えられていたので、妻はそれに合わせて服装を考えることができたと喜んだ。今回は、北欧が寄港地になっていない分、防寒用の衣服は多く持ち込まないことにした。船内では温度管理が出来ているからだ。
  インフォーマルのために数着のスーツを入れたが、先回の反省があって、さほど男のスーツ姿など憶えられているものではないと、ネクタイを多くしてダブルの1着に絞った。念のため、サマージャケットを3着、ウインタージャケット2着は用意した。寄港地では、プルオーバーの類いにコッパンスタイルと決め、デッキゴルフには、ソフトジーンズと半ズボンとした。
  他には、妻がマグネットのフック、ファイルホルダーなどを買った。地図に関して先回は、八重洲ブックセンターに出掛けては、何ヵ国もの本を購入したが、今回はやめた。港町そのものは、通常の観光ガイドブックには載っていないところが多い。なぜなら、空路で入ることを前提に編集されているからである。都市に関しては、ライブラリーにあるガイドブックを有料でコピーしてもらうことにする。シャトルバスが何分かかるかで、港と街との距離を推し量ることにした。
  前回よりはいくらか荷物は少なくなった。しかし、今回は、通販で購入した秘密兵器を大型スーツケースに忍ばせた。バネ付きの背当てクッションと折りたたみ式のパソコンデスク「どこでもテーブル(¥2900)」である。これで、長い時間パソコンを叩いていても快適だろうという目論見である。パソコンは妻と別々に持つ。プリンターもペーパーも印画紙もインクもデジカメ4台と20枚近いCDRW。デジカメメディアは、SDとDXの540を3枚。1ギガでは、もしも紛失、障害が発生したとき、異国でフォトショップを探すのに時間を費やしたくないからだ。これらが、衣服よりも重要な気分になっている。なんだか事務所の備品だ。パソコンとプリンターとカメラ以外は、日通の宅配便が30日に集配に来てくれた。

  昨日は飛鳥Uが、今日はピースボートのトパーズ号が出航する。2年前、ピースボートには、勤務先を辞めたゼミ卒業生に勧めた。彼女は、アフリカの喜望峰も、南米のホーン岬も回ってきた。そして、いま、介護士の勉強をしながら、高齢者専門の旅行会社に勤めだした。今回は、映像専門学校の教え子が乗り込んだ。就職の内定を棒に振ってまでである。ピースボート船内では、広報部に属し、映像の撮影編集を担当するのだと聞かされた。ギリシャとニューヨークの入港日が重なるので、巧くいけば同じ桟橋で彼に会えそうである。

  朝、自宅からマンション1階に最後のゴミ出しをした。新聞と牛乳配達を止めた。メルマガの多くを登録解除した。今回は、限られた関係にしか、不在を伝えていない。
  徹夜でなんとか片付けた居間が、今はがらんとした。春という季節をここに置いていくのだ。次男夫婦に、ベランダ菜園をしてもいいわよと、妻が時々の風通し役を頼んだ。
  12時30分、予約しておいた日交のワゴンタクシーが来てくれた。雨がまだ残っている高速を横浜のロイヤルパークホテルへ走る。ゴトー(5,10)日だとはいえ、4月という会社始めの季節だからか、渋滞もなく13時にはランドマークタワーに着いてしまった。チェックインをするには、まだ充分な時間がある。パソコン類をクロークに預け、5階に新設されたレストラン・フロアーに上がる。
  野菜を主体とした「シェフズ」という名前の店に入る。帆船日本丸を眼下にしたカウンターテーブルに案内された。50年以上、外洋に出ていた商船学校の練習船である。30枚近い帆を張った姿は、よく報道された美しい姿だった。マリタイムミュージアムである。年に何回か、すべての帆を張る日があるそうだ。この帆船日本丸と、明日乗る「にっぽん丸」が、よく勘違いをされる。外は風が強いのに、日本丸メモリアルパークの桜は散っている様子もない。

  簡単に昼食を終えた。コスモワールドの大観覧車のデジタル時計が、14:40を示していた。チェックインできる時間になった。ホテルに戻る。誰も顔見知りの人には会わなかった。
 「私共の都合で、少し、お部屋が広くなっております」
  フロントの女性から、そう告げられた。ダブルではなく、ツインの部屋が空い ていたのかなと受け止めた。6621号室。それにしても、思ったよりも高層階の部屋にしてくれている。65階には、他の階層とは違って、エグゼクティブ・ラウンジがある。つまり、64階から66階まではエグゼクティブ・フロアーと なっていたからである。

  3年前、にっぽん丸は東京の晴海桟橋から出航した。このため、朝、地下鉄からタクシーに乗り継いで晴海に出掛けたが、今度は、横浜大桟橋である。飛鳥Uが就航するとき、母港は横浜と決め、船尾にもYOKOHAMAとなった。横浜の中田市長は大いに喜んだ。中田は、大学の「放送ジャーナリズム」講座の後輩になる。「マスコミ青学会」で再会した。当時は衆議員議員時代で、地方行政がやりたいと言っていた。その横浜とは異なり、にっぽん丸の船尾には、TOKYOとある。3年前は、姉妹船のふじ丸の後に帰港した。新幹線駅や羽田空港に近いせいか、04年から横浜大桟橋からの出航になったらしい。
 
 それなのに、なぜ、ロイヤルパークホテルからなのか。実は、会員になっているクルーズの専門旅行会社・ゆたか倶楽部から、ホテル前泊サービスの知らせがあった。これは、札幌や仙台、また静岡など遠隔地の会員の方々へのサービスであろうからと、申し出ることを遠慮した。然し、前夜に懇親食事会があるという。早くから船客の方々とお知り合いになれるものならと、図々しく電話で打診してみた。東京在住者が、横浜みなとみらい21のシンボルとして誕生した、ランドマークにあるホテルに泊まることなど滅多にあるものではない。70階建ての日本一高いビル、その名の如くランドマークタワーの最上層部、52階から67階までを占める五つ星ホテルである。客室は210メートル以上に位 置しているから、部屋の位置によっては天気が良いと、房総半島や伊豆大島、富士山までが一望できるという高層ホテルである。
  「どうぞ、東京の方でもご遠慮なく」という答えが返ってきた。松浦社長に感謝しながら、泊まることにしたのだった。前夜祭のような気分である。おそらく、新潟から来る菅井夫妻も、同じゆたか倶楽部会員であるから、この前泊サービスを受けるだろうと予測した。我々が泊まることは伏せておいた。
  そもそも、この船友とは、互いに行き来している間柄で、新潟の、とある温泉宿に菅井荘輔さんと二人で湯に浸かっているときに出た話からだ。
  「…で、さ、…06のにっぽん丸さ、今度は誰が行くのさね、知ってる人で…」
「工藤さんは、必ず乗るでしょう、それにオセアニアにも乗ったデッキゴルフのメンバーなんか…なんせ、デッキゴルフできるの、にっぽん丸だけですからね…」
「おれんちも、誰か、知った人いないとね…」
「…」「…」しばらくは、温泉湯の流れる音だけが大きくなった。
「行きますか…一緒に…」「…行く?!」「…実は、電話で申し込んできた。松浦社長に…」「え!!…なら、行きますか!あなたんとこが行くってなら、よかった…一緒に行こうかねえ…」後は、二人とも、唇に指を立てて、含み笑い。
  「まだまだ、帰るまで内緒にしとこうね」
  その夜、男同志で飲み酌み交わすビールの美味かったこと。僕たちが帰京してすぐ、荘輔さんがゆたか倶楽部に電話を入れたら、まだ大丈夫だった。しかし、荷造りの最中に、美子さんのお母さんが倒れた。乗船できるかどうか、難しい状況に迫られたそうだ。医師の判断と周囲の理解と協力で、まず予定通り乗船までは漕ぎ着けたが、寄港地でトンボ帰りするかも知れないという気持ちで横浜に向かうと言ってきた。心中察するに余りあるので、同じホテルで迎えるささやかな喜びを伏せておいた。

  部屋に足を踏み入れて驚いた。三点セットのテーブルの上に、いきなり、きれいな花篭が目に入ったからだ。「みっちゃんの息子さんだ」。妻はすぐに事の次第を読んだ。娘時代から家族同様に生活してきた横山さんを、妻は姉のように慕ってきた。その息子さんが、ホテルで働いていることを教えられていた。出航に合わせてか、舟形の花篭だった。カードには、こう書いてあった。
  『世界一周の船旅、楽しんできてください。横山美和子』
  その横山浩司マネージャーに仕掛けられたサプライズだった。封書には、日頃母がお世話になって云々の、マネージャーからの挨拶が入っていた。
  フロントで言われた意味が、ようやく飲み込めた。妻は、感激して目が潤んでいる。窓外には、横浜大桟橋のにっぽん丸が真正面に眺められる部屋を与えられたのだ。
  早速、池之端の実家に来ているに違いないと、横山さんにお礼の電話を入れた。妻が菅井美子さんに携帯電話を鳴らした。まだ居所を教えないである。その内、大きな笑い声になった。サプライスが弾けたようだ。
  しばらくして、菅井夫妻が部屋に来てくれた。久しぶりに船友との再会である。部屋の違いに気づかれた。妻がそのわけを話して、冷蔵庫の缶ビールで乾杯した。
  菅井夫妻にとっては、喜ばしさも半分に抑えた乾杯だった。積もる話は夕食時にとなった。
  僕は、今回持って行く携帯電話のボーダフォンのメールの使い方を復習した。テストメールを長男に打った。すぐさま彼から返信が入った。これで、安心である。
  夕食は、この部屋よりも2階アッパーの68階、中華広東料理「皇苑」。ゆたか倶楽部が主催してくれた懇親会である。ところが、エレベーターが何度停まっても、満員で乗る余地がない。食事時間が重なっているからだ。非常階段を探すが見当たらない。部屋に戻ってインフォメーションに訊くが、やはりエレベータで上がるより他に方法がなさそうだった。たった2階下にいた我々だけが遅れた格好になった。案内された部屋には、3つの大きな円卓にそれぞれ着席されていた。
  初めての方が多い中で、前回組の岩崎さん、三吉さんの顔があった。
  そのテーブルに二つ空きがあった。三吉さん、岩崎さんと菅谷さん、菅井夫妻に、85歳のご婦人と8人が座った。次卓は、蔵前の太田さん、八王子の荻原さん、そのまた奥が、名古屋からの竹内さん他。簡単な自己紹介をしあった。離れているテーブルからは3人のお名前を箸袋にメモっておいた。都内からの方も前泊者の中にいらして、ほっとした。

  食後に菅井夫妻の部屋で話す。室内のテレビは、民主党の小沢、管両氏に焦点が当てられ、ポスト小泉を睨む自民党が蚊帳の外に置かれている状態だった。妻がホテルの外をぶらつきたいのではと思ったが、一段落して安心したのか、睡眠不足もあり、部屋に戻ってシャワーを浴びて横になるという。
  二人で66階からの夜景を眺めながら、日本にサヨナラをした。

 
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