もくじ

060405
横浜ロイヤルパークホテル

060406
横浜出航

060407
神戸

060408
大隅諸島

060409
バーシー海峡


060410
ルソン海峡


060411
南シナ海

060412
南シナ海2

060413
シンガポール入港

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シンガポール2

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アチェ・スリランカ西沖

 午前2時をすぎても、携帯電話は、「圏外」が続いた。朝、屋久島近くに来て、やっとアンテナが3本立った。ようやく、長男にメール送信ができた。

  八点鐘コメント「横浜を出港して以来、春の高気圧に守られて航行しています。現在、九州の南、屋久島の東側を航行しており、近いところで約2kmに接近しています。にっぽん丸は高気圧の東に位置し、本日は南西諸島の東側を南下しまして、高気圧の中心部へと向かいますので、一日中穏やかな天気となるでしょう。北西の風、風速16m、外気温19℃、海水温度21.5℃。波の高さは1m。
  クルーも本日から夏服となりました。14時15分から2時間かけて奄美大島から喜界島の間を航行します。17時30分には、徳之島の東沖、18時45分頃、沖永良部島沖を通過、21時から24時には、沖縄本島に沿って南下を続けます。これで、日本の陸地から離れます。尚、屋久島は九州で一番高い山々があります。1935mの宮之裏岳、1886kmの永田岳、そして1831kmの黒味岳の景観をお楽しみ下さい。因みに阿蘇山は1592kmで、いずれもこれより高い山です。本日は17時まで操舵室をオープンしております。」

  朝食後、携帯電話が通じる内に、パソコンでのメール受信を試みようと、コネクトするUSBコードを探した。ところが、どこにも見当たらない。重要なコードがない。自宅でテストをした時に入れ忘れたのか。今回は、高額な衛星通信回線は極力使わず、携帯電話を通して、自室から通信することにしたのだが…。それがなければ、これから3ヶ月間、携帯での通信が出来なくなる。大変だ。もしかして、居間のテーブルに置き忘れてきたのだろうか。
  部屋の中の荷物を掻き回しているうちに、なんと携帯電話が通じない海域になってしまった。合致するUSBコードを寄港地で買い求めることは難しい。販売店を探す時間は無いだろう。やはり、日本から郵送してもらう他ない。次の寄港地、シンガポールは13日。いまなら、何とか間に合いそうだ。無線室の船舶電話で一刻も早く長男に頼んでおこうと、6階へ上がる。
  自分に腹を立てながら、6階の廊下を急ぎ足で歩いた。なんということだ!3年前の眼鏡事件を繰り返している。あのときは、妻が自分の眼鏡を壊してしまった。留守番役の長男に、予備の眼鏡をシンガポール港へ届けるよう、頼んだのだ。
  無線室の出口通信長に、日本への電話を申し込んだ。「今なら、萩原さん、2階の電話ボックスからカード電話が通じますよ」。親切にこう言われた。はて、テレフォンカーがあったか?日本国内でしか使えないテレフォンカードを財布に入れたままにしているかどうか。幸い、使い掛けが3枚入っていた。長男への交信は、携帯電話である。船舶電話から携帯電話へかけると、通話料のカウントダウンがかなり速い。使いかけのテレフォンカー3枚では、心許ない。話の途中で切れる怖れがある。
  2階の船舶電話の隣には、クレジットカード専用の電話がある。クレジットカードなら、カウントダウンの心配はない。再び部屋にクレジットカードを取りに戻る。ところが!あるべきところにカードがない。焦る。時間がない。探すのを一旦止める。3枚のテレフォンカードで船舶電話をかけてみる。ところが、悪いことに相手は留守番電話になっていた。「自宅に見当たらなければ、USBコードを再購入して送ってくれるように」と伝言するに留まった。伝言どおりに動ける状態かどうかも確認できないままになった。
  そして、また新たな問題が持ち上がったのだ。気を静めて、部屋の隅々までVISAカードを捜す。が、ない。最後に手にしたのは、東さんとご一緒した夕食時のテーブルだったことを思い出す。…船内の何処かで落としたことになる。
  3年前、メキシコのコズメルで、クレジットカードを店員にスキミングされた直後、日本に電話をして緊急停止したのは、出航して72日目。今度は、4日目の日本海域で、VISAカードの停止を判断しなければならなくなった。なんということだ。余りにも、不測のことが次々起きる。今回のクルーズ、幸先は良くないぞ、と思った。船内の遺失物として出てこなければ、シンガポール着岸までに、カードの停止無効をするに越したことはない。そうと決めたら、VISAサービスセンターに連絡するとした。VISAサービスは24時間対応である。残るテレフォンカードで手短に再発行の手続きを申請した。電話での対応が、非常に親切だったのが、なによりであった。緊急事態の客を相手にするのは、ゆっくりと落ち着いた応対をすべしとマニュアルがあるのか、こちらも気を静めて話せた。

  船内は、今日の午後から多くの教室が始まった。パソコン教室、俳句教室、ソシアルダンス教室、コントラクトブリッジ教室などのオリエンテーションが行われている。妻は麻雀教室に出かけ、さらにエアロサイクルに乗ってきたらしい。講座の説明会が重なっていたようで、7階リドデッキのフィットネスコーナーを使う人は、幸いにも居なかったという。あの20数人が一時的に押し寄せていたら、順番待ちということになっただろう。リドデッキのテーブルで、「萩原」という名前が耳に入ったので振り返ったら、どうやら、取材で乗ってきた編集者らしい女性がいて、彼女に探しているのは自分かと、妻が名乗ったという。旅行誌「ラシン」の鈴木利枝子という名刺を差し出され、シンガポールで下船するまでの間に、取材時間を下さいませんかと言われたようだ。出航前のNHK取材でのようなことを喋るのなら、ネタにならないぞと釘を刺しておいた。

  9時30分、船内に緊急信号音が鳴り響いた。予告されていた避難訓練の時間がきたのだ。各自部屋のロッカー上部から、オレンジカラーのライフジャケットを取り出し、着用してデッキに集まるという訓練だ。我々の指定されたライフボートは、最後尾の7番の位置である。プロムナード・デッキに続々と船客が集まった。点呼を取られた。エンジン付きの救命ボートは80名乗りで、充分に余裕がある。菅井夫妻、工藤夫妻と同じボートに乗り合わせることになった。 着用してデッキに集まるというということは、いざという時、部屋の鍵を持ち合わせていないと、部屋の中に常備されているライフジャケットを手にすることは出来ない。ところが03年次では、ご夫妻のどちらかがルームキーを持つという方がいた。たとえ、短パンTシャツでも、各自が鍵を身につけていないと、自室の救命胴衣が手に出来ないことになる。災害時は一旦自室に戻る必要があるのだと自覚させられた人が多かった。ルームキーをネックレスにしておくには、重すぎるという言葉に、笑いが起きた。ここで初めて、緊張感がほぐれた。どこの客船でも、乗船したらすぐに行うのが、この緊急避難訓練である。
  10時、ついにというか、待ちに待ったデッキゴルフの参集時間になった。オセアニアでもやり通したという高碕伸さん、松田史郎夫妻に、デッキゴルフ歴最古参の工藤俊枝さんが集まった。そして、ロイヤルパークホテルで知り合ったばかりの、同じゆたか倶楽部の菅谷さんも現れた。合わせて6人が初日の記念すべきメンバーとなった。紅白のパックに分かれて、ゲームを開始した。
  デッキゴルフを簡単に説明しておこう。
  <舞台は、太陽サンサンの4階の後部デッキである。太いポールの先はY字型に削られた木型が付いている。厚み約1.5cm、直径約5cmの円形パックには、番号が付いている。紅白それぞれが番号順にシュートする。全コースはスタートホールの他、1番ホールから5番ホールを得て最終のホームホールで終わる。ホールは、二重の同心円にパックを入れる。ここまでは、ゴルフに似ている。自分のパックが、敵味方いずれのパックに接すれば、そのまま、打ち続けてられる。これは、おはじきである。途中、ハザード、ポンド、バンカーに類似したエリアが絵柄で明示されている。このエリアは、“イケポチャ”と同じで、俗称“ドボン”と言い、他力本願で救出を待つ。また、全コースに引かれたラインから、パックが出た場合は、一旦休むことになる。連続して2回フレームアウトされると、これを“目玉”と称し、敵の攻撃を禁止し、保護される。5ホールを通過するときには、歩から金に変わるように“権利玉”として、特権を得る。
  そして、グループ内の連係プレイを計り、全員がゴールした側が勝ちとなる。午前中に特別な講義、イベントが控えているときは、時間切れで、権利玉の多い方が勝ちを得る。>

  ゲームに打ち興じる我々を撮影したいと、鈴木利枝子さんもカメラマンを連れて見物に来た。なにしろ、このデッキゴルフ、「飛鳥」や「ぱしふぃっくびーなす」では、出来ないゲームである。このデッキゴルフやりたさで、にっぽん丸から離れられないという船友が多い。
  3年ぶりに握ったスティックは、ショートの、いわゆるパターショットになると、ミスが多く出てしまった。
  菅谷さんと僕以外は、昨年のオセアニアクルーズで熱戦を展開したデッキゴルファーである。1年前だから、さすが身体は覚えているようで、スティック捌きも無駄がない。羨ましい。
  インストラクターは、イベントスタッフの黒川さん。コースの半分は初心者の説明指導に使われることになった。このため、1,3,4ホールを2回ラウンドすることにした。2002年にデッキゴルフを楽しんだという菅谷さんが、かなり巧い。メンバーは、初日から結構興奮し、声も次第に大きくなっていった。結局、高嵜、松田、萩原の白パック組が1勝した。

  12時の昼食は、高嵜夫妻とセンターテーブルに着く。遅れて東夫妻が加わった。話題は、なぜか、大使を経験した人は・・・となった。大使経験者には、天下りがない代わりに退職後も給与額は減額されないで支給されるのだそうだ。我が国の大使は特権階級である。大使経験者の未亡人は、女官に登用されるのだそうだ。へえ、ほうと、全く未知の世界、高尚な話題?で楽しく食事を終えた。高碕夫人が、日本から持参したワインをプレゼントしてくださった。贈った本のお礼だそうだ。妻は船に乗ると、ワインをよく飲む。僕はといえば、自分の焼酎「神の河」を持ち込んでいる。高嵜ワインは、食前酒になるか、ナイトキャップになるか。有り難く頂いた。

  14時、船は奄美大島の横を通過する。なぜか、うつらうつらし始める。輪投げにもカジノの説明にも出かける気がしない。久しぶりのデッキゴルフで疲れたのだろうか。ごろ寝をする。疲れたら、横になれる旅。これは、船旅にしか出来ないことだ。
  アートクラフト教室から妻が帰ってきた。「グラスリッチェン」というヨーロッパ伝統のガラス工芸を習ってきたという。ダイヤモンドの粉末を電着させた針で、ガラスの表面を削って図柄を描くものだった。菅井荘輔さんは、細かい花柄を見事に削り取ったという。
  17時。今夕のドレスコードはフォーマル。フォーマルウエアの準備に入る。妻は今回、和服を自分で着付けるのだと言っていた。迫る時間と戦いながら、焦りながら、額に汗を浮かべていた。フォーマルディは女性にとって、楽しみであると同時に面倒な日でもある。一方、僕は、タキシードに手慣れてきて、短い時間で着終えた。
  18時、船客が全員乗船した日である。ウエルカムパーティが始まる。ドルフィンホールに続く廊下には、正装した船客が並んだ。この行列がなんとかならないものかと思う。どうにも面はゆい。照れくさい。仰々しい服装と狭い廊下に並ぶ姿が、気分的にもマッチしない。晴れ着の品評会のようだ。本を読んで乗ったという兵庫県の木島光一・桂子夫妻が、丁度我々の後に並んでいた。木島さんたちの船室が342号室であると言われ、驚いた。僕たちは341号室である。前後の番号だった。尤も、奇数が右舷、偶数が左舷であるから隣り同志というわけにはいかなかった。

  ホールの入口では、正装したクルースタッフが出迎えてくれている。立ち話をしていた木島夫妻とは、そのまま話していたいものだと、互いに空席を目で捜したが、4人席は既になかった。またいずれ、と今晩は別々の席に座ることにした。遠くに目をやると、初日に出会った仙台からの高橋夫妻の隣が2席だけ空いていた。今晩は、宜しくと座わらせて貰う。ホールの中は、数人のウエイターやウエイトレスが、「本日のカクテル」をプレイトに載せて、席を回っている。各テーブルには、「本日のカクテル」の説明とアルコール度数のレベルが書き込まれてある。4種類のカクテルの中から、僕は2番目に強いイエローのグラスを取る。しばらく高橋夫妻と歓談していると、背中で拍手が一段と高くなった。中山船長がステージに立った。
  これからの世界一周の幸運を祈念し、大家族の生まれたことを祝し、乾杯!となった。船長が例によって、主要クルースタッフを紹介、チーフパーサーから順に自己紹介が始まった。出身地を語る。そうすることで、その都市から乗船している船客との接点を作ろうというのだ。
  最初のフォーマルディに妻が和服なので、平野カメラマンに合図して、記念写真を撮ってもらう。にっぽん丸には、専属のカメラマンが二人乗っている。ツアー先の現地でも、適宜シャッターを押してくれる。帰船した翌日には、それらの写真が何十枚も3階の壁に展示される。それを規定の用紙で申し込めば、焼き増ししてもらえるのだ。絵葉書サイズで、840円。大きいサイズが、整理しにくいのだが、記念となる写真だから仕方がない。

  カクテルパーティと言っても、いわゆるパーティ会場のように、自由に歩き回って、人を人に紹介し合うというスタイルではない。クッションの深い椅子に座りながら、4人単位くらいで歓談するだけである。このため、多くの人とコンタクトできるのではない。座り合わせた方々と、互いに数分間歓談し終わったら、ダイニングルーム・瑞穂へ向かう時間になってしまう。話が華僑に入った途端立ち上がることになる。互いにお食事をと思っていても、最初だから、遠慮もある。4階のホールを出て、再び廊下を並んで、2階のダイニングに向かう頃には、はぐれてしまうのだ。
  廊下で、「あっ」という声で呼び止められる。
  「萩原さんでしょうか、…私たち、貴方の書かれた本を読んで、今回乗りました!」
  ぞろぞろと並んで歩いている時で、なんとも面はゆい気分だった。「思い切って世界一周」のタイトル通りにアクションした読者に、またまた会えたのだ。クルーズ・ターゲットに、本で心を動かせたことがとても嬉しくなった。広告屋としては、ひとつの小さなメディアの役を果たしているという実感が嬉しくなる。頂いた名刺で那須野光政・俊代ご夫妻だと知った。
  船内で使うための名刺は、多くの旅行代理店が作ってくれる。写真入りもあれば、船室ナンバーが印刷されているのもある。初めて同志では、顔と名前が一致しないので、この名刺に特徴を書き込んで憶えるのだ。夫婦別々に持つ人もいる。最初から連名にした名刺もある。3年前には船客名簿があったのだが、今年は、個人情報の規制から配布されなくなった。名刺がコミュニケーションの最初のきっかけになる。今回は何枚を交換することになるのだろうか。

  食事時は、姫路からの山縣治郎・千津子夫妻と一緒になった。奥様は僕を知っているという。03年時の商船三井客船、モパスのホームページにリンクされていた僕の航海日誌を拾い読みしていたのだそうだ。航海日誌をアップしているソーホーのホームページには、僕の顔写真があるから、それを憶えていてくださったようだ。山縣さんは、10年目の愛犬(ゴールデンレッドリバー)を訓練所に預け、観葉植物は貯めた雨水を自動的に散水できる装置を設置してきたという。お嬢さん二人が、證券会社の社内結婚で片付き、野菜作りに励んでいる90歳の実父は、新聞を拡大鏡で読みながら、「行けるときに行ってこい」と励ましてくれたという。そう、行けるときが乗るときです、と賛同した。

  食事が終わると、メインショーがドルフィンホールで催される。今晩は、亀山勝子&法男ショーの時間だが、展望風呂に行くことにしていた。こうした時間に展望風呂に入るのも手である。3人だけだった。手足を伸ばして、ゆったりとした時間を過ごせた。朝風呂に入ってから朝食の人もいる。夕食前に入る人もいる。ゆったりとはいるには、空き時間を狙うに限るのだ。久しぶりにデッキゴルフをしたのだから、日頃使っていない筋肉をほぐしておく必要がある。これから長く続くのだから。

  風呂から上がると、携帯電話が鳴った。東京の次男の嫁、真紀子からだった。留守電が伝わったのだ。長男とボーダフォンのUSBコードを秋葉原に買いに出てくれたようだ。 VISAへ再度、電話する。再発行が間に合えば、シンガポールへ送ってくれる ことになった。各寄港地には、商船三井客船と取引している現地エージェンシ ーがある。送付先アドレスを電話では間違えやすい。慎重を期するため、無線 室からファックスで送信した。これで、クレジットカードの関してはひと安心。 ファーストパーサーの久次米さんには、現地エージェンシーがカードの受け取 りをしてくれるよう、お願いをした。

  12時30分、船は台湾に向かって航走している。3年前は、アモイの入港時間に余裕がなく、船足を急ぐ必要があったのか、屋久島からストレートにアモイへ向かったが、今回は、大隅諸島から喜界島、徳之島から沖縄までと、名残惜しむように日本最南端の島々を眺めさせてくれている。それは、シンガポールまでの航海日が長い分、時間調整をするにも充分な距離があるからだろう。
  本日は、デッキゴルフに興じたり、フォーマルウエアで肩張ったり、紛失したものに苛立ったりと、変化に富みすぎた。疲れた。
  この文章、ときどき居眠りしながら打っているので、これで止めることにする。



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