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最終更新日2007.3.31(土)
「下谷笑鬼の片眼」がブログになりました!
萩原高のコラムコーナー「下谷笑鬼の片眼」。
タイムリーなテーマを元に、独自の視点で書きつづって参りますので、
ぜひ、熱いうちにご覧下さい。
下谷笑鬼(=萩原高)の片眼とは…
東京社会人生活を東大の近くの本郷追分から始めた。 その後、東京芸大の裏の上野桜木に。 そして上野高校の横の池ノ端、 そして上野公園を横切って、山手線の外側に降りた。 最初の落語が講じられた下谷神社近くに住む。 アサヒビールに近づくこと徒歩20分。 アメ横から浅草まで世相を片目で視る徒然草。
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もくじ

No.021
顧客不満足


No.020

初めての島原

No.019
船友を訪ねて1300kmの旅


No.018

リタイアー年代の同期会

No.017
ブラジル市アサクサ・ストリート

No.016
母校(青山学院大学)の
マスコミ修飾ガイダンスで想う

No.015
九州に二度飛んだ。
エアラインの品質・二毛作の生活

No.014
朝5時からの自家菜園
 

No.013
カーブどっち?

No.012
畳24枚の喧嘩凧

No.011
8月、船に揺られて。
その3,阿波踊り

No.010
8月、船に揺られて。
その2,花火

No.009
8月、船に揺られて。
その1,レピュテーション

No.008
2007年、日本の老化

No.007
がんばる新潟!へ旅

No.006
観客のいない野球

No.005
チルソクの夏

No.004
タレントの外国語習得

No.003
顧客サービス

No.002
占領軍が育てたジャズ

No.001
吉野家PR


雪 『国境の長いトンネルを抜けると雪は無かった。靴の底が黒くなっていた』。

 僕は、久しぶりにしかも、板を持たずに湯沢駅に降りていた。着いた日は、雪国ではなかった。川端康成も、有名なイントロを書き残したが、彼は真冬ではなく12月の初雪が降った日に清水トンネルをくぐり抜けたのだそうだ。ホテルにチェックインした後は、湯沢町の歴史民族資料館にいた。駒子のモデル芸妓「松栄(まつえ)」がいたといわれ、移築された置屋「豊田屋」の前に立っていた。そこには、三味線を横置きして炬燵の横に座っている駒子がいた。

 他には、どこでもそうだが、作家の、つまり川端康成の机や愛用品が展示されていたが、カミサンを喜ばせたのは意外なものだった。2階に設けられている「雪国の住生活コーナー」で、新潟から来た船友に、生活古具を嬉々として訊ねていた。囲炉裏太い柱で囲まれた居間、囲炉裏火で燻されたブラウンカラーの世界。かい巻き、五徳とか行李とか、七輪、湯湯婆(ゆたんぽ)、行火(あんか)、洋燈(らんぷ)など、息子達はもう知らないだろうな。まつり縫いするためのくけ台とかを見たとき、毎晩あれを膝で押さえて和裁を夜遅くまでしていたお袋の姿が現れた。囲炉裏を見つめていると、スキーをし始めた薮原や大学時代に出掛けていた戸狩の民宿を思い出す。箪笥の縁に瓢箪の筒がぶら下がっていた。種入れだと言われて納得。

脱穀機  それよりも懐かしいものに、脱穀機があった。名古屋の自宅前は、名古屋造船の社宅があり、その向こうは一面が麦畑だった。どういう関係か、僕はその脱穀機に刈り取った麦を差し込み、足で踏んだ体験がある。バリカンのような大きな刃が向いた機械に麦を挟んで引き抜いたことも思い出された。子供の時、黄粉を作るために挽いた石臼も懐かしかった。藁で創った円筒の炭俵が目に留まった。蓋を押さえるバネの役目を果たしている最上部の小枝を指して、これこそ日本人の知恵だなあと、声を上げて喜んでしまった。杵を指さして、船友は洋上でにっぽん祭りをした日を思い出していた。新潟からの船友とは、菅井夫妻だ。

「忙しいだろうけど、一度時間を作って会ってくれない?東京と新潟の間で」

 2週間前、朝に電話があった。寝ぼけ声で受話器を取っていた。「寝起きだな。ごめん」そう言って電話が切られそうになった。菅井荘輔さんからだった。介護でお疲れ気味の奥様を気分転換させたいという優しさだった。で、東京と新潟のほぼ中間ということで、越後湯沢となったのだ。幸いにも、専門学校の土曜日がカリキュラムの予定では、空いている。すぐに27日にしようと決めた。

 我が家には、荘輔グッズが多い。足下の室内履きは、荘輔さんが布で編んでくれた草履である。食事のテーブルには、いつも荘輔さん手製の乾燥唐辛子から刻んだ一味がある。新潟の名産品は、保存食が多いせいで、塩分がきつい。このため、調味料となる香辛料のほうが僕には嬉しいのだ。荘輔さんの優しさだ。カプサイシンも入って、ダイエットにはいいのだ。

 ほかには、モルジブのクダバンドス島やマラガのヒブラルファロ城、ケチカンの木樵ショーで切断されたイエローシーダーの木片などを使った箸置きがある。作:荘山である。

 季節になると、趣味の荘輔農園から、大好物の干し柿が、つい先頃は、寒ずりが送られてきた。塩分制限されている僕が、山葵や胡椒や七味を大量に使うことを知っているからだ。寒ずりは、初雪の便りと同じように、新聞紙面を彩る季節の写真となる。新井市の名産品で、練り辛子のことだ。原料になる赤唐辛子を雪の中にさらし、麹と柚子などの天然香料を加えて寒中に仕込むので「作里」という名前が付いたそうだ。その寒ずりが今年は出来なかったので、老舗の品になったという。3年間熟成させるものだが、昨年は一緒に世界一周クルーズで出掛けたために、自分の畑を留守にしたから作れなかった。ところが今年は、雪が少なくて、かの新井市も妙高の高山に場所を移したよと、荘輔さんは笑った。蕎麦やパスタ、刺身や鍋物は言うに及ばず、僕は冷や奴にも塗ってしまう。鰻やカツ丼、ラーメンなどにも美味そうだが、そうした食べ物は余程のことがない限り、僕は口にすることを禁じている。

 雪国の昔を思い出しながら、館を出た。雪の無い道路脇に、雪垣が空しい風景だ。東京から越後湯沢まではスキーシーズンだというので、ガーラ湯沢駅まで往復割引料金だった。そうならば、いっそスキーウエアを借りてひと滑りしてきてやろうかとさえ思っていた。北海道のスキー場以外は、いまや、スキー場経営のターゲットは、シニアとファミリーだけになったそうだ。

 それなのに、駅前からすぐのゲレンデは、カラカラと空のリフトが回っているだけだった。途中で雨が降ってきた。世界最大級だというロープウエイ駅の先に拡がるゲレンデ、またガーラのゲレンデ群は、この雨が雪に変わっていればいいものだが、湿れば雪がひっかかって事故が起きる、そんなことを気にしながら歩いた。
道端の壁にラングリーメンの締め具が付いたスキーが錆びたまま立てかけられてあった。前傾バンドのスキーもあった。雪国館では、小学校の時に最初に買って貰ったゴムのスキーブーツがあったし、革のブーツもあった。僕は上京した時、何が何でも貯金をはたいて、四谷の高橋でオーダーしたダブルの革靴を履いていた。ラングやコフラックなどというブランドがすっと口をついて出てきた。

 ある家の玄関には、さすが雪国なりの、注連飾りがあった。パチリと撮った。道路脇の骨董屋、いや古道具屋で荘輔さんが足を止めた。使い古した糸車が売られていた。荘輔さんが子供のように目を輝かした。500円だった。小さな行燈にするんだと店の中に飛び込んだ。クリエイター荘輔がいた。カミサンがそろそろ珈琲を飲みたがる時間だ。

水屋  洒落た店が眼に入った。木造3階建てだ。旅籠・井仙とある。井仙といえば、上野の老舗のとんかつ屋である。パンフレットを読んでみると、旧湯沢ビューホテルいせんと括弧づきで、書いてある。和食屋は、「むらんごっつお(村のご馳走)」、名産品売場は「んまや(厩)」とある。益々気に入った。同じ経営だろう、隣りの珈琲店「水屋」に入った。相当に手を加えたホテル業マネージメントと診た。

 今は、大学生が後期の試験中だ。高校生も大学試験期だ。雨でもみぞれでもいい。どか雪は2月に入ってからでもいい。道の両側に雪の壁が出来る風景でなくては、川端文学が嘘になる。

菅井夫妻と ホテルでゆっくりと温泉に体を沈めた。夕食を食べながら、陸に上がった船友達の話になった。外国船籍に乗りたいが果たせないで終わることは4人とも判っていた。遠くにナイターの明かりが見える。と、そこへ、窓の外に白いものが降り落ちてきていた。夜の明かりに照らされる雪を見ながら、暑かったエジプトの市場を歩き回ったことや、アラスカの氷河が温暖化で3年間の間に地表を見せていた話などをして懐かしんだ。

 朝、積もっているはずの雪はなかった。駅の中にある名産店を覗いてみた。そこに怒りの掲示板を読んだ。『こけの馬鹿っ話があるか!魚沼産コシヒカリの生産量の90倍が市場に出回っている』というものだ。どこかで同じ首を傾げる話がある。ボージョレヌーボーの解禁時に、狭い土地から運び出されたらしいワインの相当量が、我が国に空輸されてくる。まあそれにしてもここは、今更ながらに日本酒とコシヒカリの郷だと悟った。かの有名な爆弾おにぎりは此処にあった。「よいこのびいる」が売られていたのには、笑ってしまったが、酒で作ったチョコからバームクーヘン、ソフトクリームまであったのだ。奥には、酒風呂まであった。スキー場に若者の足が遠ざかり、中高年が舞い戻ってきたのなら、それも良しか。

 土産品のへぎそばを見たら、無性に食べたくなった。柏崎の駅前を思い出した。出張で柏崎に出向いたとき、必ず食べに向かった蕎麦屋があった。へぎに盛られてきた蕎麦の多さを見て驚いたが、その味は腰があり、忘れられなかった。

 西口駅前の「福寿庵」は、行列が出来ていた。6人前の大へぎを4人でつるりと平らげた。駅を背にもう一度、山頂を仰いだ。ガスっていた。

 帰京して3日目に荘輔さんから写真が届いた。小さな行燈が出来ていた。4日目、1月30日の新聞に、『米政権、温暖化研究に介入 環境保護局に記述削除要求』という見出し記事が載った。

 環境保護局(EPA)の研究に介入し、地球温暖化に関する記述を削除させていたとする調査結果を発表した。2003年7月に発表の「環境報告書」で、事前に草稿をチェックしたホワイトハウスは温暖化が人間の健康に与える影響など複数のくだりを削除するよう要求していたというもの。

 ところが、04年の11月頃には、再びブッシュ大統領が、温暖化隠しをしたらしい記事が出ていた。北極の温暖化の深刻な事態を発表する研究結果が、大統領選後に延ばされた。そのことに怒った欧州の研究者がニューヨーク・タイムズにリークしたというものだ。そして、ネットで調べると、06年には、米海洋大気局(NOAA)が「地球温暖化がハリケーンの増加や強暴化の一因になっている」とする報告書を発表しようとしたところ、ブッシュ政権に阻止された、と英科学誌ネイチャーが電子版で報じたということも出てきた。米国が、中東に赤い火炎を上げることより、自国の黒い氷河を一度診てきてもらいたいものである。温暖化は確実に地球を怒らせている。

 


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